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(いつかは離れるって思ってたけど……こんな形でなくなるなんて……)
万里が葵依の傍を離れ、葵依は一人残された。
いつから一人になったのか気付かないくらい、言葉も発さずに空き地をぼんやりと眺めながら母親と過ごした思い出を一つ一つ頭に思い浮かべる。
葵依がまだ幼かった頃のさらに古い記憶が、ふと頭をよぎった。
それは、まだ物心がつき始めたばかりの頃、二歳の葵依が遥と一緒に過ごしたある日のことだった。彼女は小さな手でスコップを握り、公園の砂場で夢中になって遊んでいた。楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、「もう帰ろうね」と抱き上げられた。そのとき、「もっと遊びたい」と小さな声でごねたものの、叶わなかったのだ。葵依はぐずりながら、遥の肩に顎を乗せ、名残惜しそうに砂場を見つめた。その帰り道、公園の外に真っ赤な車が止まっていて、中の人が優しく手を振ってくれた。その姿に嬉しくなった葵依は、小さな手を一生懸命振り返した。
次の記憶は初めて桃を口にしたときのことだった。まだ自分ではうまく言葉にできないながらも、「甘い」ということがわかって、驚くほど美味しい桃の味に目を輝かせた。「もっと」と口を開けて遥にせがんだその様子に、遥も思わず笑って桃を追加で食べさせてくれた。あの甘い果実の味は、その後も毎年、遥が桃を用意してくれるたびに蘇り、葵依にとって特別な味となった。
また、初めて自分だけで買い物に行くと言い張ったこともあった。五百円をしっかり握りしめ、スーパーへ向かう葵依を遙が心配そうに見送った。結局、三歩後ろをついてきていたが、それでも「一人でできたんだ」と、得意げにアイスを買い、帰り道は遥と手をつないで帰ったのだ。
お誕生日が来るたびに、遥は毎年、葵依の好きな食べ物ばかりを用意し、心を込めて祝ってくれた。「お誕生日おめでとう」と笑顔で迎えられる食べきれないほどの食卓が、幼い葵依には何よりも特別で、自分が大切にされているのだと感じられる瞬間だった。
初めて料理を作った時だって覚えている。幼い葵依はキッチンで真剣な顔をして野菜を洗い、まだ包丁が握れない年頃で覚束ない手付きだった。遥は傍で見ながら、おろおろ狼狽えながら、葵依が野菜を一切れ切る度に叫び声を上げていた。その夜、葵依が初めて作ったハンバーグはボロボロに崩れてハンバーグとは言えない代物だったけど、遥は「美味しいね」と褒めてくれた。笑顔で囲んだ食卓の温かさが、今も心に残っている。
また、夜寝る前には毎晩のように本を読んでもらっていた。遥の声で物語を聞きながら、葵依はどんどん夢の世界へと誘われ、遥が「おやすみ、葵依」と優しく頬にキスをしてくれるその瞬間が何よりの安心感だった。
(ママ……もう一度、会いたい)
『行ってきます』
『行ってらっしゃい』
『お帰りなさい』
『ただいま』
『いただきます』
『いってらっしゃい』
──あの頃の葵依にとって、母親と交わす一つ一つの言葉は、日々の当たり前として過ぎていた。それでも、母親と過ごした『おはよう』で始まる朝から『おやすみなさい』で終わる夜までの繰り返しの中で、何気ない言葉たちが自分をどれほど支えてくれていたか、その尊さは知っていた──でも、思っていた以上に大きなものだった。
(失ったのは、ママだけじゃない)
壱の声で「おはよう」や「おやすみ」を聞く日常は何よりも幸せだった──あの想いを二度と感じることができない。彼の煙草の匂いだって嗅ぐことができない。
葵依は母親を亡くした痛みは、無理に笑顔を作ってやり過ごしていたのに、笑えないせいなのか痛みを誤魔化せない。だからと言って、涙が出てくるわけじゃない。痛みは確かにある筈なのに。
(もう、誰とも心を分かち合えない──……)
もう腕の中には戻れないんだ。
壱の力強い腕と、彼の胸の鼓動を二度と聞くことは叶わない。
「たす………………けて」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。痛みに押し潰されそうな心が、無意識に助けを求めて叫んでいたのかもしれない。
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