一日目(前編)

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一日目(前編)

アスファルトの上を走るバスの外には、緑豊かな森林が広がっている。普段都内で生活している自分にとって、このような光景を見る機会はほとんどなかった。おまけに天候も良い。真夏であるため、ここも都内と同様に暑いことに変わりはないが、都内の高温多湿なそれとは大きく違い、心地よい暑さであった。そのため、僕はこの山奥の森林でリフレッシュしたいと思った。 バス内が騒がしいことと、これが仕事であることを除けばの話だが。 僕の名前は青倉賢吾。大手塾に勤務する塾講師だ。今日からここで小学四年生を対象に、中学受験に向けた勉強合宿を行う。 バス内にいる三十人近くの小学生は、全員が当塾の塾生である。バスは今乗っているものを含めて十台もあるため、今回だけでも三百人近くの生徒を対象に合宿を行っている。しかも違う日程で参加する生徒も沢山いる。当塾では早期から徹底して学習を行うことで、ライバルに差をつけることをモットーにしており、事実として他塾を圧倒する実績を誇っている。今回行う合宿もその一因となっているわけだ。もっとも、これには色々な裏事情があるのだけど。 とにかく、当塾は早期教育に注力している。ただ僕には様々な不安があった。僕は窓ガラスの方を向きながら、ため息をついた。 「どうしたの?」 隣に座っている僕の同僚が話しかけてくれた。彼女の名前は春坂千夏。二個年下の後輩ではあるが、とても頼りになる。綺麗な黒髪を後ろで結んでいるが、なぜか普段よりも固く結んでいるように見えた。 「いや、何でもないよ。ただちょっと不安でね」 「そんなときもあると思います。何しろ今回は中学受験の合宿。普段中高生向けの講義を中心に行っている分、やりにくい部分はあると思いますし」 そうなのだ。僕は中高生向けの講義を中心に行っているが、中学受験向けの指導は全くと言っていいほどしたことがなかった。何より僕は高校、大学受験の経験はあるが、中学受験の経験はないため、経験に基づく指導が出来ないのである。そんな僕が今回参加することになった理由だが、相変わらず当塾は人手不足に悩まされているうえに、元々合宿を担当するはずだった講師が入院してしまったのである。そのためピンチヒッターとして僕が講師として参加することとなった。 「まあまあ、不安にならなくてもいいっすよ。先生の腕は確かっすから」 反対側に一人で座っている秋川君が話しかけてくれた。彼は学生バイトだ。どこか軽快で、馴れ馴れしさすら感じるが、今回に限ってはこれが頼もしかった。むしろ二人の方が中学受験生への指導に慣れているため、頼りにしている節すらあった。 「あ、ありがとう」 僕は苦笑いしながらお礼を言った。
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