日陰者

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「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けず」  わたくしと雨の道を歩く時、あの方はいつも楽しそうに歌っていました。  何でも著名な作家先生の詩の一節であるとかで、あの方はその先生の影響を受け、若い時分には作家を目指したことがあるそうです。わたくしの元を訪れる時にも時折、難しい文字がたくさん並んだ本を何冊か小脇に抱えていることがありました。もっとも、学のないわたくしは文字が読めませんので、その内容を知る術はありませんでしたが。  わたくしが初めてあの方に買われたのは、暗く湿った路地裏の一角でのことでした。  いわゆる梅雨寒と呼ばれる五月の夕暮時、同じように身を売る仲間達と肩を寄せ合い、震えていたわたくしの顔を掌で押し上げて、あの方は仰られました。 「よし、これにしよう。――これはいくらだね、店主?」  それから間もなく、冷たい雨の降り注ぐ路地裏の片隅で、わたくしはあの方の為に身体を開きました。わたくしにとって、それは生まれて初めてのことでしたので、未知のことに震え慄くわたくしを掴んで押し広げるその手が、やけに大きく強く感じたことを、今でも明確に覚えています。  世間の方々はわたくしのような立場にある者を、日陰者と呼びます。わたくしと並んで売られていた仲間の中には、照り付ける夏の太陽の下で開かれた者も、また、降りしきる雨と日の光の中の両方に身を置いた者もおりました。しかし例えあのお方が望んで下さったとしても、わたくしがあのお方と日の光の中を歩くことは、決して起こりえなかったことでしょう。わたくしがあの方に買われた時、既にあの方には奥様がいて、お二人の間にはお子様も生まれていたのです。  あの方をお慕いしていたのかどうか、正直なところ、わたくしにもよくわかりません。あの方がわたくしを必要とするのは、降りしきる雨の中でだけ。今宵こそはと望んでも、雨が降り止めば訪れはありません。そんな夜、わたくしはいつも一人きりで空を見つめておりました。  雨よ降れ。振り続け。いっそ永遠にこの雨が止まなければよいのに。たまの逢瀬に精一杯身体を開いて、あの方を包み込んでいる時、わたくしは現世を降りしきる雨からあの方を守っているような心持になったものです。  あの方の人生の片隅に身を置いて、どれだけの月日がたったのか、もはやわたくし自身にもわからなくなった頃。あの方がわたくしの元を訪れることがなくなりました。仕方のないことなのだとわかっています。陰にも日向にも年月は平等に流れるのですから。わたくしの身体からは歳月と共に、かつての張りも艶も失われました。買われた頃のわたくしと同じように、しなやかで、雨に濡れて艶やかに光り輝く新しい身体が、今頃はあの方を包み込んでいるのでしょう。  あの方が亡くなったと知らされたのは、あの方がわたくしの元を訪れなくなって、一年程たった頃のことでしたでしょうか。何ということでしょう。あの方がわたくしを訪れなくなったのは、病で枕も上がらなくなったから。わたくしはあの方が病に臥せっていたことも知らされず、訪れがなくなったことを、薄情と信じて恨んでいたのです。  あの方の葬儀の場に、もちろん、わたくしの席はありません。鯨幕と呼ばれる白黒の布が張られた玄関の片隅で、今までずっとそうしてきたように、ただ静かに蹲っていることだけが、わたくしに許された唯一でした。  このまま冷えて凍って固まってしまうかと思うほど、寒い夜でした。この先、わたくしがどれほど凍えていても、もう誰も見向きはしない。冷たく濡れたこの身体を開いて拭ってくれたあの優しい手は、もうどこにも存在しないのです。  どうせただの道具なら、心など持たなければよかった。もうこの暗く冷たい闇の中に埋もれたまま、永遠に目覚めたくない。わたくしにとってそれは、決して難しいことではありません。誰もわたくしになど見向きもしない。残されたあの方の家族にとって、わたくしはあの方に所有されていた、ただの道具のひとつに過ぎないのですから。 「――この傘、まだあったんだ。これを買ったの、僕が子どもの頃だろう?父さん、ずいぶん、物持ちがいいなあ」  あの方を失って、いったいどれほどの時間がたったのでしょう。ふと視線を感じて顔をあげると、遠くから光が射し込んで、そこから手が差し伸べられたところでした。暗く冷たい床の片隅に長らく放置されていたわたくしは、あの方に買われた時と同じように、薄汚れた顔を震えながら押し上げました。 「へぇ、これ、まだ使えそうだな。母さん、この傘、僕がもらってもいいかい?」  玄関の外では雨が降っていました。庭の片隅には薄紫のあじさいが咲いていて、花弁を伝った雨の滴が、砂利の地面に滴っています。この雨はもうすぐ上がるのでしょう。遠くの空でわずかばり雲が割れ、その隙間から一筋の光が射し込んでいます。 「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けずに――だな」  あの方とよく似た声をしたあの方のお子がそう言って、わたくしを日の光の下に押し開きました。
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