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09. Play
「地方入試は面倒なことばかりで、その土地の名物を食べるくらいしか楽しみがないですよ」
三浦先生は微笑んで、どうぞと私に紙袋を差し出す。
十日ぶりの研究室は、なんだかとても温かくて、快適すぎて、却って居心地が悪い。
後期の授業は終わっているから、三浦先生は午前も午後も研究室から離れない。私がお昼を食堂で食べてきますと言ったら、不思議そうな顔をしておられた。いつもと違うことは、やっぱりするものじゃない。
「お裾分けです。生ものは消費期限が怖いので、干菓子ですが」
「ありがとうございます。今、開けて食べましょう」
「これは律さんに差し上げた分ですから。僕も研究室用に買っているので、そちらを一緒に食べましょう」
あまりにもにこやかに言われるので、断れなくなった。辞めると告げた後に、手元におみやげが残ったら、きっとつらい。だから、今ここで開けてしまいたかったのに。
「ありがとう、ございます」
「じゃあ、お茶、淹れますね」
先生はお茶の準備をし始める。コンポのCDが切り替わって、研究室で初めて聞いたバッハが流れた。
この、おかしなバッハも、もう聞くことはないんだな。私の生活に音楽なんてないもの。必要ないから。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
最後だから、きちんと味わおうと思う。カップに口をつけた瞬間、ふっと香る爽やかな香り。これは、最初に飲んだダージリンだ。研究室ではずっと、先生のお好きなアッサムティーだったから、わかってしまった。
私の人生が少し変わった、きっかけの香り。
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