お姫様と缶ビール

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 私たちは八年前から終わっていた。  とっくに終わっていたのに最後のほんのひと押しだけを先延ばしにして、ようやく二ヶ月前に、本当に終わった。  二ヶ月前の八月の半ば、私はクーラーの効いた部屋でこう言った。一字一句、間違いなく思い出せる。だってそれこそ八年間も、胸の中で繰り返し練習したのだから。 「私たち、離婚したの」  自分でも意外なほど落ち着いた声を出した私に、一人娘の(りつ)は唖然としたようだった。  彼女の反応も当たり前だ。それこそ私たちは、この子に疑われないために細心の注意を払ってきたんだもの。  昼食のカルボナーラからバターとベーコンの幸せな香りがする。当てつけみたいで嫌らしかったかなと私は少し後悔した。別れた夫の好物をなにもこんな時に作らなくてもよかったかもしれない。知ったことでは、ないけれど。 「相談もせずに決めてごめんね。二人で話し合って決めたことなの」  何一つ嘘は無いのに、何故だか自分が大嘘つきみたいに感じた。  離婚届はつい三日前に提出した。書き込んだのはもっと前だけれど。  律は戸惑った様子で、俯いたまま口を開かない浩二こうじさんの方を見た。ずるい人だ。娘への報告を私一人にさせる気なのだろうか。 「私はまだしばらくここに住むけど、父さんはすぐに引っ越すから、また色々落ち着いたら連絡するね」  伝え終わると、私の心は荷が下りたように軽くなった。きっと今までずっと、言いたくて仕方がなかったのだ。酷い母親だと思った。娘に離婚の話をしたかったなんて。だけどこの事実ばかりは、重たすぎて私一人には抱えきれそうになかった。なぜなら、離婚の原因は浩二さんの浮気だから。誰かが彼を、責め立ててくれればいいと思った。 「申し訳ない」  浩二さんは律に向かって頭を下げた。少し薄くなった頭髪を眺めて、私は彼を嫌いになろうとしていた。  律は何にも言わなくて、あっさりと私たち家族は終わった。成人した娘の反応なんて、こんなものなのかもしれない。心のどこかで期待していた。律が私たちを止めてくれるのを。とっくに手遅れだとしても。  静かになった食卓にフォークがお皿を叩く音ばかりが響く。  八年間も先延ばしにしたのに、まるでたいしたことではないような感覚がした。こう仕向けたのは間違いなく私自身なのに胸が苦しくなって、私それをカルボナーラの胸焼けだと思い込むことにした。
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