お姫様と缶ビール

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「どうしたの、この花」  お土産沢山あるから来て、という子どもだましみたいな誘い文句で呼び出した律が、玄関先であからさまに顔を歪めた。  正式な離婚から二ヶ月と少し。何度かメールで短い言葉を交わす程度だった娘の久しぶりに聞く声は、私を怯えさせるには十分だった。  彼女は一体、不甲斐ない母親にどんな感情を抱いているのだろう。  私は大きな花瓶に生けてある大仰な花を見やってから口角をつり上げる。 「別に。いいから早く上がりなさいよ」  律は頷いたけれど、きょろきょろと辺りを見回しては眉根を寄せた。額縁に入れて飾っているジグゾーパズルや増えた靴を訝しがっているようだった。  玄関なんて、マシな方なんだけどなあ。  私は口内で呟いて、リビングを通ってキッチンへ。アールグレイの紅茶をいれてリビングへ戻ると、少し悲しそうな面持ちの律がテーブルについていた。  テーブルの上には小さなサボテンが飾ってある。部屋の隅の大きなテディベアも、棚の中のこけしもテレビ台の上のフィギュアもベランダのそばに置いた観葉植物もソファの上の大量の袋と箱も、つい二ヶ月前までは無かったものだ。  私はこの二ヶ月で、浩二さんが居なくなったスペースを埋めてあまりある大量のものを買い漁っていた。 「あの人がコーヒー好きだったから合わせていたけど、紅茶って美味しいのね」  紅茶の入ったカップを律の前に置くと、彼女は一度持ち上げて飲まずにテーブルへ置き直した。結構良い茶葉なんだけど、紅茶は好きじゃないのだろうか。娘なのに、そんなこともわからない。 「どうして急にヨーロッパなの」  律がぽつりと問いかけてきて、私は自分のカップを手に取った。豊かな香りが鼻腔から脳に届く。  私はつい先日まで一週間のヨーロッパ旅行へ出かけていた。 「約束してたのよ。離婚するならヨーロッパ一周旅行をプレゼントしろって」  私の回答に他にもっと訊きたいことがあるはずの律は何故だか全部飲み込んで、静かに口を開いた。ああ、私の嫌なとこが似ちゃったな。 「ヨーロッパ好きだったっけ」 「人並みにね」 「なにそれ」  呆れた様子の律が小さくため息を吐いてから続ける。 「父さんに聞いたよ、離婚の原因」 「あの人だけのせいじゃないのよ」  あんなに律を味方に付けたがっていたくせに、私は不思議と浩二さんをかばうみたいに微笑んだ。  紅茶で唇を湿らせて、離婚の経緯を説明する。話し終える頃には律はすっかり下を向いてしまっていた。  私は努めて明るい声色を作る。 「気に入らないことがある度に、離婚の条件付け足しちゃった。実はヨーロッパ旅行以外にも色々させてもらったの。高いエステとか、ホテルのバイキングとか」  よほど私と後腐れ無く別れたいのか、浩二さんは私のわがままに全て頷いた。  駄目だって言ってくれたら、よかったのに。馬鹿みたいに言いなりになって、この二ヶ月間律儀に色んなチケットを郵送してきて、口座にも大金を振り込んできた。私は調理師のパートを辞めてそんな彼の罪滅ぼしを片っ端から消費した。  気が付くと目の前の律が恐い顔をしていた。彼女を育ててきた二十年以上の間も見たことが無いような知らない顔だった。 「そんなんじゃないでしょ? 旅行とかエステとか、そんなもので解決できるんじゃないでしょ。なんで怒らないの? 悔しくないの? 裏切りだと思わないの?」  律は吐き捨てるみたいに言ったかと思うと、用事を思い出したのだと席を立った。私からお土産を半ば奪いとるように受け取り、そしてそのまま、帰ってしまった。  私はまた一人きりになった広いリビングで、冷めた紅茶を飲み干した。柔らかな香りと共に渋みが舌の上に広がる。  裏切りだと、思うよ。  本当はヨーロッパ旅行を選んだ大きな理由があった。  結婚する前、私たちは外国の映画を好んで映画館へ観に行っていた。うっとりと美しいお城やドレスに思いを馳せる私に、浩二さんは言ったのだ。 「きっといつか、二人で色んな城を見に行こう」  私はなんて素敵な約束だろうと思った。この人といれば、幼い頃憧れた本の中のお姫様みたいになれる気がした。  誰にも言ったことが無いけれど、私の大昔の将来の夢は「お姫様」だった。おばあちゃんになったら、浩二さんに打ち明けてみたいと思っていたのだ。その頃には彼はおじいちゃんだから、きっと馬鹿だって笑ってくれると、思っていたのだ。  たった一人で眺めたヨーロッパのお城は、映画で見ていたときよりも遠く感じた。私のもとに残ったのは、ただの疲労感と虚しさだけ。  ねえお姫様、気位の高い貴方なら、こんな時どうしたの。八年もしがみついたりなんて、しなかった?  もうタイトルも忘れてしまった物語の名前もわからないお姫様に私は年甲斐もなく訊ねてみて、皺の刻まれた指輪の無い指先をそっと撫でた。
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