お姫様と缶ビール

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 季節はあっさりと秋を通り過ぎて冬となり、私の手には浩二さんから送られてきた最後のチケットが握られていた。  新幹線ですぐの二つ横の県にあるこの温泉宿は、古い歴史を感じさせる景観をしていた。  すぐにロビーでチェックインを済ませる。一人での旅にはとっくに慣れた。  平日の真っ昼間の旅館は人もまばらで、私みたいなバツイチのおばさんにはヨーロッパなんかよりよっぽどお似合いに思えて少し笑えた。他の客も年配の人たちばかりだ。  案内をしてくれる仲居さんの後ろをついて歩く。通り抜けたロビーから見えた庭は立派で、最後まで気を抜かずに浩二さんが私の機嫌を取ってくれているような気がして嬉しくなると同時に、そんな自分が嫌にもなる。一体いつまで、未練がましいつもりだろう。  部屋は海の見える角部屋だった。十二月になったとはいえ雪はまだらしく、葉の落ちた木の向こうに暗い海が広がっていた。 「雪が降ったら綺麗なんでしょうね」  窓の外をみやって私が言うと、仲居さんは「そうですねえ」と相槌をうって、お茶をいれると早々に出て行った。私のことをどう思っただろう。旦那に逃げられて子どもも家を出て行って、ひとりぼっちで温泉になんか来ちゃった五十手前の女? お見事全くその通り。  これが映画だったら、きっと雪が降り出して私は涙の一筋だって流すだろう。  八年もかけてじわじわと別れたせいか、私は感傷に浸りきれていなかった。八年かけたって、浩二さんと浮気相手はちっとも別れたりしなかった。  期待していなかったというと嘘になる。長引かせている間に、彼らが上手くいかなくなることを。そうして浩二さんが後悔して私に謝罪したら、言ってやるのだ。 「バイバイ」  私は浴衣を持って部屋を出た。夕食までまだ随分ある。一度温泉に浸かっておこう。  辿り着いた広い露天風呂はがらんとしていて、私は端っこの岩陰にもたれると空を見上げた。太陽が灰色の雲に覆われている。目を閉じると風の音がした。  立ち上った湯気が頬をかすめる。  あの頃私は三十九歳で、浩二さんの浮気相手は二十代の若い人だった。その事にも無性に腹が立ったのをよく覚えている。だから私はあの家を、必要以上に美しく保った。念入りに掃除をして、手間暇を掛けて凝った食事を用意した。あんな若い人には出来ない芸当でしょう。こんなによく出来た妻はいないでしょう。私は言葉ではない方法で彼を責め立て続けた。  ふいに若い女性の話し声が聞こえてきて、私は瞼を持ち上げた。じゃぶじゃぶと水音がする。どうやら私から見えない位置に違う客が入ってきたようだ。  少しすると再び静かになって、私はのぼせるまえに出ようと腰を上げる。すると同時に、視界へ飛び込んできた光景に目を疑った。  若い女性二人が湯に浸かったまま口づけを交わしている。喉の奥がひゅう、と間抜けな音を出した。  上気した肌が重なりあい、湿った唇の隙間からひどく赤い舌が覗いている。夢中でお互いを貪りあう彼女たちには、周囲のことなんてこれっぽっちも頭にないようだった。永遠にも感じられる長い数呼吸のすえ、ようやくこちら側へ向いている女の子が僅かに目を見開いて、ぱっと離れた。異変に気付いたもう一人が振り返って目を丸くする。私は脳が揺れる感覚がして、慌てて露天風呂から出て行った。
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