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浮気?
ハンスに手取り足取り、と妄想を始めたはいいが、俺にも仕事がある。ハンスの部屋に置いてある服に着替えると、街の中心部までのこのこと歩いていった。
俺の仕事はレース編み職人だ。
間違いじゃない。レース編み職人、だ。
ミンネでハンドメイド作品を売っていそうな職業だけれど、こちらの『人間』には男女問わずメジャーな仕事だ。
この世界の九割は獣人で、彼らは俺たちよりも遥かに指が太く不器用なのだ。だから繊細な、たとえばレースや刺繍、貝の細工や木彫りの物なんかを作ることができる獣人はほとんどいない。そしてそういった繊細なものを持つのが一種のステータスであるようで、金持ち獣人は家に何人も人間を雇って繊細な飾りつけをさせているらしい。
で、身を寄せるところがなくて困っていた俺は、比較的はじめるのに元手がかからない仕事として、レース編み職人になった。一年前に見習いとして教えてもらい、最近ようやく商品としてまともなものを作れるようになったところだった。
人間の親方のいる商店に入り、店に置いたままの自分用のレース編みの道具を引っ張り出す。他にも数人のレース編み職人が店にはいて、それぞれ作ったものを店に出し、その売上から売り場を貸してもらっている店に店賃を抜いたものを給料として払われているのだ。
「お、おはようアオ」
「アグ。おはよう」
さて何から始めようかと机に向かって軽く首を回していると、少し長めの茶髪を揺らす若者が明るい笑顔で店に入ってきた。同じくレース編み職人のアグだ。中東系とアジア系を足して二で割ったような顔立ちの彼は生粋のこちらの世界の住人で、数年前に人間ばかりの村から街へと出てきたらしい。頼れる身内がこの街にはいないとのことで、一人で暮らせるようにレース編み職人になったらしい。
朝陽に透かして美しいレース糸を選別している彼は、俺がこの世界の住人じゃないことを知ると沢山のことを教えてくれた。
そうだ。それならこのことも彼に聞けばいいじゃないか。
俺と同じような道具を掴んで机の向いへと座った彼に、一度周りを見回してから小さく声をかけた。
「なぁ。アグ。アグって、今までに童貞と付き合ったことある?」
「……は?」
朝からする話題じゃないよな。明らかに何言ってんだこいつ、みたいな顔のアグに、なんだか気まずくて軽く笑いを浮かべる。だが口から出してしまったものは戻らない。
「いや、マジでここだけの話なんだけど……俺の好きな人、童貞らしくて」
「は!?」
「え、アグ声でか、」
「え、ええ!? ちょっと待て!」
小さい声で話せよ! 慌てて口の前に指をたててしぃ、と言うけれどアグは止まらず、がたんと派手な音を立てて椅子から立ち上がって叫んだ。
「お前、第一騎士団のハンスさんと付き合ってなかったっけ!? なのに童貞の男好きになっちゃったの!?」
「いや、声でかい! そんで内緒な!」
もはや止まらないレベルのアグの口を掌で覆うと、無理やり引っ張って窓際まで引っ張っていく。クソ、そうだった。こいつも獣人の世界の住人。つまり色々と力任せでデリカシーという概念のない男。同じ人間だからって甘く見ていた。
完全に店内の耳目は集めてしまった。レース編み職人が数名と、間が悪いことにお客さんの獣人までいた。
これじゃあハンスが童貞だってバレてしまうじゃないか。そういうことは勝手に言いふらしちゃダメなんだぞ。何でもないです、と周りに手を振って、それから小声でアグの耳元に口を寄せた。
「内緒だって」
他の人にバレさせるなよ。視線を鋭くして睨むが、アグはぶるぶると牛のように首を振った。
「いやいやいやいや、やべぇだろ。俺は恋人いるのにそういうの、よくないと思うけどな。つーか命知らず過ぎ」
「は? 命知らず?」
「え、命惜しくないくらい本気ってこと?」
「でなきゃ悩まないだろ。本気で好きだし」
そうだよ。本気でハンスが好きじゃなかったらこんなに悩まない。ずっとずっと俺は最後まで進展しない関係にモヤモヤしていたんだ。多少獣人のセックスが荒っぽくてもハンスが早漏でも我慢する。決意を込めてそう呟くと、アグは俺の本気をさとったのか体の力を抜いた。
「そうか……アオが本気なら、俺には見守ることしかできねぇな」
「ああ、本気だよ。だからなんかこう、助言とかない? 俺は獣人について詳しくないからさ」
「相手、獣人なのか。……いや人間でも修羅場だけど」
「え? 修羅場なの?」
「そりゃそうだろ。獣人同士だなんて殺し合いかも……いや人間だったらなぶり殺し……」
「え、殺し合い? なぶり殺し?」
アグの口から出てきた言葉にちょっと引く。殺し合いになぶり殺しって、そんなにセックス激しいの? 痛いレベルじゃすまないのか。さっき命が惜しくないのかとか言っていたけれど、本気でそんなに危険なのかよ。
「そんぐらいの覚悟はいるだろ」
「マジか……」
「マジだ」
深く頷かれて、少したじろぐ。これはどうやら本気だ。
「いや、でも、ハンス優しいし……平気だよ、な? その、童貞だし……」
「童貞とか関係ねぇな」
何言っているんだとぴしゃりと言われて言葉に詰まる。そうか、童貞でもそんなに激しいのか。
どうしよう。獣人のアホみたいな怪力は知っている。たしかに全力でチンコを掴まれでもしたらぱちゅりと握りつぶされてしまうかもしれない。でも彼と別れるのも永遠にセックスしないのも絶対に嫌だ。ううう、と頭を抱えている俺をアグは憐れんだ瞳で見ると、そっと軽く肩を叩いてくる。
「アオ、やめるなら今だ。ハンスさんも謝れば許して……くれないかもだけど」
「……やめない。俺はやめないよ」
俺は絶対にハンスとセックスするんだ。ちょっとくらい怖いのなんて我慢しろよ。俺は経験者なんだし。そう心の中で自分を鼓舞すると、ぎりりと唇を噛んだ。
◇◇◇◇◇
結局アグと話した後はあまり仕事にならなかった。今夜のプランで頭がいっぱいで、帰り際にアグが『アオの休暇申請しといたから頑張れよ。生きて帰れよ』と言われるまでほとんど記憶がない。
「……よし! いくぞ!」
自分の部屋に戻って一通り抱かれるための支度をした俺は、自分を奮い立たせるために頬を二、三度強く叩いた。尻の準備はばっちりだ。あとは気合を入れて心の準備をするだけだ。
大丈夫。童貞なんだから俺が優しくヤってやればいい話だ。なんなら縛って上に乗ってしまえばいい。誘惑して骨抜きになっている間に押し倒して、それで優しいセックスを教え込めば円満解決だ。いつか使おうと思ってしまっていたエロい下着を引っ張り出すと、俺は心の中でそう呟いた。
ぴっちりと肌に張り付く薄い布地に、こちらの獣人受け抜群だという白いレースがあしらってある下着。薄すぎる布のせいで形はくっきり分かるし、ほんのり色味まで透けてしまう恥ずかしいやつだ。レースは隠すどころか陰茎を囲むようにあしらってあって存在感を際立たせている。アラサーの俺が着るのはなんとも微妙な気がしたが他にないので仕方ない。
いそいそとそれを身に着けると最近買ったばかりの新品のズボンに、脱がせやすいシャツを着てコートを羽織った。
ぎぃ、と古びた音を立てる扉を開く。
たしか今日はハンスは日中勤務だから、そろそろ家に帰ってくる時間のはず。いつものように彼の部屋で待っていればいいか。夕食をなにか買って持って行こうかな。
そんなことを考えながら一歩足をそとに踏み出した瞬間、なにかが扉の陰から伸びて来て俺の口を覆い隠した。
「……ん、ぅう!?」
声を上げることもできずに、ぐ、と力強いなにかに顔を覆われるように掴まれる。同時に体に後ろから腕らしきものが巻き付いたと思ったら、足を踏み出したばかりの部屋の中へと引きずり戻された。無理やり引きずられたせいで視界が揺れる。
待ち伏せされていた……!?
なにか、が誰かの掌なのは分かった。けれど一体だれが。放せ、と叫ぶけれど声は掌に吸い込まれてしまって出てこない。こんな悪戯するような友人はいないはず。まさか。強盗、の二文字が脳裏によぎり、心臓が一気にバクバクと鳴り始める。
「ん、んんっ、」
大声で叫んで掌に噛みつこうかと思うけれど得体のしれない相手が恐ろしくて、碌な抵抗ができない。背後から拘束されているせいで顔が見えないけれど相手はおそらく獣人だ。だとしたら力でかなうはずがない。それなら刺激しないように大人しくしてるべきなのか? 一瞬の間にそんなことを考えるけれど何が正解なのか分からなくて、体を太い腕でぎっちりと抱えられて部屋の中に足を踏み入れていく男のされるがままになってしまう。ハンス助けて、と心の中で祈っている間に侵入者はずかずかと玄関を通り過ぎた。
迷いない足取りで俺を寝室まで連れていった男は、片手で俺を拘束したまま内鍵をかけた。
「あ……、は、あ、は、ぁ」
口から手をはずされて荒く息をつく。一気に吸い過ぎて酸欠になったみたいに頭がくらくらした。もう片方の男の手は相変わらず俺の体を拘束しているけれど、俺の足が床に降ろされた。でもがくがくと震える足は真っすぐ立っていられなくて、後ろにいる男に支えられてしまった。
後ろを振り向くのが怖い。一体どんな相手が……と思って固まっていると、頭の上から聞きなれた低い声が降ってきた。
「ア~オ」
「え、は……ハンス……?」
ハンス。ハンス、なのか。
顎を上げて振り仰ぐと、今朝も見た甘い顔立ちが俺を見つめていた。
「あ~~~、ハンス、もう、なにやって、」
一気に体から力が抜ける。
死ぬかと思った。いや殺されるかと思った。あんまりタチの悪い悪戯するなよ。はぁああ、と大きくため息をついてその場にうずくまってしまおう、と足の力を抜いた。
が、腹に回されているハンスの腕からは力が抜けない。そのまま、抱きしめるというには強すぎる力で後ろからぎちりときつく締め付けられている。少し痛いくらいだ。
「ちょ、いた、なんで、」
ハンス? どうした?
そんなつもりで彼を見つめると、金色の瞳が俺の心の裡を探るように眇められる。
そして俺は、彼の次の言葉に固まることになった。
「なぁアオ、どこ行くつもりだったんだ?」
「え? どこ、って、」
「変な噂聞いたんだよ。……お前が童貞の男のこと好きになったって」
――しまった。
俺はこの世界の住人のデリカシーのなさを甘く見ていた。あの商店にいた数人の人間と獣人。きっと彼らが面白おかしく噂してしまったんだ。それで怒っているんだろうか。
びりびりと肌を刺すような怒気が彼から発せられて、空気がピンと張りつめている。俺の次の言葉をハンスは厳しい表情で待っていて、俺はその真剣さにごくりと唾を飲みこんだ。
「ご、ごめんなさい。周りに漏れるとは思ってなくて……」
「本当だったのか」
できるだけ真摯に謝らないと。そう思ったけれど言い訳めいた言葉を告げてしまった俺に、ハンスは一瞬呆然とした顔をして。それから回っていた腕に潰されそうなほどの力が入った。
「ぐ、ぇ……!?」
「クソ、人のもんに手ぇ出しやがって……ぜってぇ殺してやる」
息が止まるほど強く圧迫されて潰れた声が漏れる。いままでにない乱暴さに体が強張り、ひぃと喉の奥で小さく悲鳴が漏れた。震える俺の体をハンスは腕一本で持ち上げるとベッドに放る。
「その前にまずアオにお仕置きだなぁ」
ふー、とまるで何かを堪えるように息を吐き、ゆったりとした足取りで近づいてくる。でもそれは穏やかさなんてなくて、まるで地面に倒れた獲物をしとめにくる獣のようだった。
「アオ。浮気してごめんなさい、は?」
「う、浮気?」
「ああ、そっちが本命なんだっけ?」
金色の瞳はいつもと同じように輝いているのに、鋭い光が肌に刺さる。言われていることが分からなくて首を横に振るけれど、ハンスは唇の端をそっと吊り上げて低く囁いた。
「簡単に別れられると思うなよ」
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