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人生は選択肢に満ちているが、選択の余地はない。
パトリック・ホワイト (豪:小説家『幸福の谷』)
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私は今、人生を変えるために旅をしている。どんな旅かというと、過去へ戻る旅。
とても不思議な体験だけど、本当に起きた出来事なんだ。
私は、四十半ばの、しがない男。妻と中学生になった娘と三人で暮らしている。
私の生活といえば、仕事と家を往復するだけの生活だ。毎日、毎日、同じことの繰り返し。
しかも、妻は私が生活費を稼いでいることに、ありがたみさえ感じてない。それどころか「お金がない。お金がない」が口癖で、遠回しに、お前の給料が低い、と言われているみたいで癪に障る。
娘は娘で、反抗期に入り、私のことを煩わしく思っているみたいだ。私が何か言おうものなら、「ウザっ」と返ってくるだけだし、最近では私と同じ空間にいるのが嫌みたいで、私が帰ってくると、そそくさと自分の部屋に行ってしまう。
こんな生活が、ここ数年ずっと続いている。そしてこの先、あと何年も同じ生活が続くと思うと嫌気がさしてくる。
どうして私はこんな人生を選んでしまったのだ?私の人生はどこで間違えてしまったのだろうか?
ここ数年、毎日、そんな疑問が頭をよぎる。そんなとき、私に過去を変えられるチャンスが与えられた。
あれは今年の夏、私の祖母が亡くなったときの話になる。
祖母の齢は、九十を超えていたので、それなり往生したことになる。ここ数年は、体調は良くなく、入退院を繰り返し、最後は施設に入居してた。
私が小学生にときには、夏休みになると祖母の家によく泊まらせてもらった。しかし中学生になると、部活動とか友達とかと遊ぶほうが楽しくなり、祖母の家には行っても日帰り程度だ。
それが高校生になれば、さらに遠のく。高校生以降、祖母の家に行った覚えはほとんどない。
そんなこんなで、大人になってからは、祖母と会う機会は親戚の結婚式程度だった。もちろん私の結婚式のときにも祖母は来てくれた。
最後に祖母の家に行ったのは、娘が生まれて一年くらいして、ひ孫の顔を見せるために行ったときだろう。
祖母が入院したときや、体が弱くなり寝たきりになっても、私は仕事の忙しさにかまけて、顔一つ出さなかった。今思えば、祖母が亡くなる前に、時間を作って会いに来てれば、っと少しばかり心残りでもある。
私はそんなことを思いながら、祖母の火葬が終えた。
遺骨を祖母の家に迎える際、親戚一同が祖母の家で会食する手筈になっていた。
祖母の家は田舎で、庭はかなり広かった。しかし、親戚一同の車が全て駐車するには無理があった。そこで我々の親世代の親戚は、庭に車を駐車し、私たち世代の親戚は、少し離れた空き地に車を停めさせてもらい、そこから歩いて祖母の家に向かうことになった。
「暑いわね」と妻が文句を言う。それに返答するように、「あちぃ」と娘も言う。
田んぼのあぜ道を歩きながら、私のあとをついてくる二人。いかにもダルそうな態度である。私はそんな姿を、他の親戚たちに見られるのが嫌で、私たち家族は敢えて最後尾を歩いていた。
「そんなに面倒なら、来なきゃ良かったのに」と私は独り言のように呟く。
「誰も面倒なんて言ってないじゃない。暑いから暑いって言っただけでしょ」
妻は怒った口調で言い返す。そのやり取りを見ていた娘が、呆れるようにため息を吐いた。
私のほうこそ、ため息を吐きたい。私の家族は、祖母が亡くなった感傷に浸ることすら私には与えられないのか?っと、がっかりした。
私は落ち込むように視線を下におろしたとき、一体のお地蔵さんが目に飛び込んできた。
祖母の家まで続く、一本のあぜ道。周り一面、田んぼに囲まれ、高くて青い空と白い雲。ヒリヒリと焦がす日差しに、草の匂い。そして、お地蔵さん。
私の古い記憶が呼び起こされる。子供のとき、祖母とよく一緒に通ったあぜ道。祖母はここを通るたびに、お地蔵さんにお供えし、手を合わせて拝んでいた。祖母のしゃがみ、私は立って、一緒になって拝んだ記憶。今より少し若かった祖母の横顔が、すぐ近くにあるような感覚になった。
私は喪服のポケットを探る。ポケットの中から、包みに入った最中を見つけた。この最中は、火葬場で茶菓子として用意されていたものだ。普段なら、茶菓子程度、持って帰ったりはしないのだが、このときはなぜか、ふっとポケットの中に入れてしまった。
私は、それを思い出し、最中をお地蔵さんにお供えをした。そして、あのときの祖母のように、しゃがんで手を合わせた。
そして私は拝むために目を閉じた。その瞬間、眩暈をしたようなチカチカと光が飛ぶ。
私は、ヤバい、倒れる。熱中症か?っと思ったのも束の間、真っ白な広い空間にお地蔵さんと私だけが立っていた。
「ここは、どこだ」。私は何が起きたのか、訳も分からず、辺りを見回した。
「落ち着きなさい」
私以外の声が聞こえてきた。どこから、その声が聞こえてきたのかと言うと、お地蔵さんからである。
私は、お地蔵さんを凝視する。
「落ち着きましたか?」と、再びお地蔵さんから声がした。
「うわわわ、やっぱりお地蔵さんが喋ってる」
私は腰を抜かし、その場にしゃがみ込んだ。そして慄きながら、這いずりながら後退した。
「とりあえず落ち着きなさい」
お地蔵さんはそう言い終えると、お経を唱えた。
私は特に仏教を信仰しているわけではなかったが、なぜかお地蔵さんのお経が心を落ち着かせてくれた。
「落ち着きましたか?」と、お経を唱え終わったお地蔵さんが私に訊いた。
「はい」と私は答えた。そして続けて、「ここは、どこなのですか?」と訊ねた。
「ここは、あの世とこの世の中間点」
「えっ、どういうことですか?」
「だから、お前がいた現世でもなく、亡くなった人が行くあの世でもない、ちょうど、その途中の通り道みたいな場所だよ、ここは」
「えっ?じゃあ、私は死んだのですか?」
「いいや、違う。死んではない。ただ一時的、この場所に来てもらったのだ」
「どうして?」
「お前は、私にお供えをしてくれただろう。そのお礼をしてやろうと思ってな」
「はぁ」
私は気のない返事で返した。だって、お供えくらいで、こんな訳の分からない場所に連れて来られたら、たまったものでは無い。
「じゃあ、元の所に帰れるのですか?」と私は訊いた。
「もちろん」とお地蔵さんは答えた。「同じ時間の同じ場所に戻してやる」
「同じ時間?同じ場所?」
「元いた現世の時間が止まっている。いや、正確に言うなら、この場所では時間が流れてない。だから、私のお礼が済んだら、お前は、私の前で拝んだ時に、ちゃんと戻れるから安心しろ」
「だったら、お礼は良いので、もう帰らせて下さい」と私は懇願した。
「そう焦るではない」
「お礼なんていりません。あの最中、貰い物みたいなものですから」
「それでは私の気が済まない。だからお礼に、私がお前の人生を変えてやろう」
「人生を変える?」。私は、お地蔵さんの言葉に反応した。「ひょっとして、金銀財宝を頂けるのですか?」
「どうして金銀財宝をやらなくちゃいけないのだ?」
「私の人生を変えてくれるんでしょ?それに昔話とかで、お地蔵さんがお礼に金銀財宝を持ってくるって話、よくあるじゃないですか?」
「そんな作り話、信じてるのか?」。お地蔵さんは呆れた口調で言った。
私だって昔話など本当のことだと思っていなかった。でも、こうやってお地蔵さんと話している現状を踏まえ、この場合、そういうお礼を貰えるのかな?って思うのが普通でしょ。
「じゃあ、どうやって人生を変えてくれるんですか?」。私は不貞腐れながら訊いた。
「お前は心の中で、今までの人生を後悔しているようだ。だから私が、お前を過去に戻してやるから、やり直せばいい」
私の頭の中は、クエスチョンマークで覆われた。過去に戻る?どうやって?そしてお地蔵さんに訊ねる。「過去に戻れるってことですか?」っと。
「そうだ」と、お地蔵さんは力強く返事した。
私は考える。確かに過去に戻ってやり直したいことは多々ある。最近では、いつもそのことばかり考えていた。
「ただし、やり直せる過去は一つだけになる。っていうか、一つ変えただけでも、今のお前とは違っている。過去を変えたあと、元いた時間と場所に戻って、新しく変わった自分で生きなさい。これが私からのお礼だ」
「一つだけですか?」と私は訊く
「そうだ」
私は考える。人生をやり直せたら、っと考えることはいくつもある。一つに絞るとなると、いろいろ迷ってしまう。
私が昔のことを思い出すように考えている際、お地蔵さんは、「まだか」、「まだか」と急かしてくる。
「そう、そう」と、お地蔵さんが何か思い出したかのように話し出した。「注意することがある」
「注意すること?」と私は訊き返す。
「高校入試で落ちたでしょ?それをやり直そうと思ってるでしょ?」
「なんで分かるんですか?」
「そりゃ、お前の心の中が読めるから」
私は、嫌な能力だな、と内心思う。
私のことなんてお構いなしで、お地蔵さんは話を続けている。
「高校入試に落ちたとき、辛かったのは分かるが、第一志望の高校に入学できたとして、それがいい結果に繋がるかどうかは知らないよ」
「どういうことですか?」
「その高校に行って、勉強に付いて行けず、落ちこぼれになったり、留年することもあるかもしれない。もしそうならなくても、お前の学力で受かる程度の高校に入れたからといって、未来が良くなるかどうかは分からない」
「良くならないんですか?」
「お前が、人生に躓いた最初のきっかけが、高校入試だと思うのは勝手だけど、それを変えたからといって、人生が良くなるとは限らないよ」
「そんな・・・・・・」
「そうそう、もう一つ、注意事項が」と、お地蔵さんは付け加える。
「まだあるんですか?」
「やり直すと、記憶は上書きされるよ」
「上書き?」
「仮に、高校入試で第一志望に合格することを選んだら、そこからは、今まで記憶した人生は消え、新たに進んだ人生が記憶されることになる」
「っということは、今までの記憶は消えて、もう一度、高校から人生をやり直すってことですか?」
「まあ、そうとも言える。実際やり直しを体験するのだけど、感覚的には記憶だけが変わっている」
「どういうことですか?いまいち意味が・・・・・・」
「高校入試をやり直すことにしても、お前が現実世界に戻る時は、今の時間の今の場所に帰ってもらう。でも、それはお前の記憶だけが変わったわけではない。同窓会に行けば、新しい学校の友達と話は合うし、今までの高校時代の友達は、赤の他人になるということだ」
私は高校時代の数名の旧友の顔を思い浮かべた。部活の同期だ。今でも、年に一回は会うし、会えば部活の変な理不尽さをネタに、酒を飲みがら笑い合う。
「どうする?高校入試、やり直す?」。お地蔵さんが訊いてくる。
「ちょっと待ってくれ」。私は急かせるお地蔵さんにイラつきを感じた。
それでも、お地蔵さんは「さあ、さあ、さあ、さあ」と焚きつける。
私は頭の中で、いろんな過去を振り返る。どの過去がやり直すのには最適かを考える。そんな私の頭の中を覗き込んでいるように、お地蔵さんは口を挟む。
「そうそう、やり直すなら、就職先がいいね。社長は、口うるさくて命令口調でうんざりするもんね。しかも、それなのに給料も安い。全く、あの職場では働く意欲が湧かないよね。よし。就職活動の時代に戻って、やり直そう。あっ、でも、そういえば就職活動時、何十件も採用落ちたなぁ。あの時代に戻って、今の会社に入社しなかったら、どこにも就職できないかも?元の場所に戻った時、無職だったらどうしよう?」
お地蔵さんは、私の頭の中を、そのまま口にする。
「就職先より、結婚がいいかな?妻は、私が稼いで来ても、感謝すらしない。娘は、私の言うことを聞こうともせず、ウザがるし。結婚を変えよう。そういえば、私は息子が欲しかった。息子とキャッチボールがしたかった。結婚をやり直したら、次は男の子が生まれるかもしれない。でも、待てよ。やり直した先で、新たに結婚できるかな?ひょっとしたら、結婚できたとしても離婚だってあるかもしれない。元の場所に戻った時、独り者だったらどうしよう?」
また、お地蔵さんは、私の頭の中を口にした。
「うるさいな。ちょっとは、黙っていられないのか」。私はお地蔵さんに怒鳴った。
「ごめん、ごめん。でも変なんだ」
「何が?」
「社長に口うるさく言われるのが嫌なのに、娘には口うるさくしてるんだ。それに、稼いで来てるんだから妻は感謝が足りないって言う割に、社長から給料貰っているのに、不平不満ばかり。しかも大して真剣に働きもしないで。だから変なんだ」
私は、お地蔵さんの言葉にハッとさせられた。何か言い返そうにも、返す言葉が見つからない。
それからも私は、何が一番やり直すのに適しているかを考え続けた。しかし考えれば考えるほど、いい結末を思い浮かべれなくなっていた。一つの失敗をやり直したところで、さらに大きな失敗があるかもしれないっと思うと、何も決められなくなっていた。
私があれこれ考えている間、お地蔵さんは飽きてしまったのか、黙って寝そべっていた。
「もう駄目だ。やり直しはいい。私を元いた場所に帰してくれ」。私は叫ぶ。
「ダメだ。最中のお礼ができてない。私の気が済まない」。寝そべっているお地蔵さんは、あくびをしながら言い返す。
もう、どうでもいいみたいな態度なんだから、私を帰してくれればいいのに、と内心思う。そこで私は思い付く。
「じゃあ、最中を渡さない。そこをやり直す」
私がそう告げると、お地蔵さんは笑いながら立ち上がる。
「いい考えが浮かんだな」とお地蔵さんは言う。
「でも安心しろ」と、お地蔵さんは言う。「嘘だから」
「嘘?何が?」
「過去に戻ることなんて、私にはできはしない。だから、過去をやり直すこともできない」
「何で、そんな嘘を吐く必要があったんですか?」
「だから、最中のお礼がしたかった」
「お礼が嘘を吐くことですか?」。私は呆れた。
「違う。お礼は、お前の人生を変えることだ。これは一番最初にも言っただろう」
「嘘を吐けば、私の人生が変わるとでも?」
「お前は、後悔ばかりしておった。過ぎたことなのに、やり直せたらっと考えてばかりじゃないか?でも、これで、はっきりしただろう。たとえ過去に戻れたとしても。お前は何も変えることは出来ない」
「私を馬鹿にしたくて、嘘を吐いていたのか?」。私は悔しくて震えた。
「違う。そうじゃない。やり直すことは出来ないのは、人間に選択肢がないからだ。人間は多くの選択肢があると思っている。いろんな岐路で道を選び進んでいると思っている。でも実際は違う。お前たちは選ばれているんだ。道から選ばれている。お前がどの道を選ぼうが、どの方向に歩こうが、お前にちょうど合った道しか現れない」
「じゃあ、どうすればいいですか?この先」
「まずは、このことを常に肝に銘じておけ。過去をやり直したいなって後悔なんてする意味ない。そして未来も、どっちのほうが得なんだろうって迷っても意味がない。全てはお前次第なのだから」
「でも私次第だから、人生、上手く行ってないんです。そこを何とかしたいんです。人生を変えてくれるんですよね?」。私は懇願した。
「その考えが良くない。『人生、上手く行ってない』と思っている間、人生、上手く行かない道がお前の前に現れる」
「でも、実際、上手く行ってませんし」
「そんなことはない。本当に人生が上手く行ってないのなら、絶対、過去に戻ってやり直す。それが、決めれないということは、何かしら良い側面があるはずだ。お前は、過去のことを悪い側面でしか見てなかっただけだ。今まで歩いた道を良い側面から見ろ。そして、その道は祝福されていたと思ってみろ。これが人生を変える方法だ。最中のお礼だ」
お地蔵さんは、そう言うと消えていき、この白い空間も、どんどんと暗闇に覆われて行った。
「お父さん、お父さん」
娘の声に私は我に返る。目の前に、あのお地蔵さんと私がお供えした最中。元いた場所に戻ってきたようだ。
「お父さん、なに拝んでんのさ」。娘は怪訝な表情で言った。
「いや、昔、おばあちゃんと一緒になって、よくこのお地蔵さんに拝んでいたんだ。お地蔵さんは見た瞬間に思い出して、ついね」と私は照れながら答えた。
すると、娘と妻が、私の横に来た。私と同じようにしゃがみ、手を合わせた。私たち三人は、お地蔵さんを一緒に拝んだ。
拝み終わった私たちは、また親戚一同の最後尾に加わった。
「あれ?」と娘が言う。「お母さん、目が赤いよ。泣いてるの?」
「泣いてないわよ」と言い、妻は私たちから顔を背けた。
妻には、こういうところがある。厳しいようで、人情脆い。人の心にすぐに同調してしまう。いや、人だけでなく、動物に対しても。
「ねぇ、ねぇ、お父さん。お地蔵さんに何を拝んでたの?」と娘は私に訊いてきた。
私はこの問いを、昔、祖母にもしたことがある。私は、その時に祖母に言われたことを、そのまま娘にも言った。
「道に迷いませんようにって拝んでいた」
「えー、変なの。ここ一本道だよ。迷うわけないじゃん」と、娘は大きく笑う。
確かに今思うと変だな。でも私が祖母に訊いた時は、私がまだ小学生に入ったばかりの頃だった。あの頃は、何の疑問も持ってなく、私も祖母と同じように拝んでいた。
「お父さんだって知らないよ。昔、おばあちゃんから教えてもらったんだよ」
娘があまりにも笑うから、私は言い訳みたいに祖母のせいにした。
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