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「先輩、海ですよ」
電車の中、青く透き通る様な海が見えた。夜空に浮かぶ月の光が爽やかに辺りを照らして、何とも言えない淡い感傷を私にもたらした。
「撮らないんですか?」
「道が付随していない景色はあんまりかな」
「こんなに綺麗なのに?」
私の質問に答える気は無いらしく、先輩はそのままシートに頭を預けた。私は外の景色を堪能する。電車代は意外と高かったので、元を取らねばと思う。バイキングで明らかに食べきれない量を皿に盛り付けるみたいで、とても卑しい感じだ。
「緑色って目に良いって言いますけど、電車の暴力的なスピードの中だと逆に目が悪くなりそうですよね」
「そうだね……」
「……眠たいんですか?」
微睡む先輩の表情はどこか子供らしく、それでいて端正な顔立ちを引き立てるスパイスの役割を果たしていた。
「眠くない。ちょっと瞼のカーテンが落ちそうなだけだよ」
「それを人は睡眠と呼ぶんですよ」
先輩は珍しく微笑んだ。可愛い。
蜂蜜を今すぐ全身に塗りたくってパンケーキにして食べたい。いや、虫がつくから駄目か。いつ誰が先輩の最高の魅力に気付くか分からない。私は先輩にとっての優先順位は低い筈なので、好きな人が出来たら迷わず切り捨てられるだろう。先輩は結婚に疑問を抱いていたが、人間の価値観なんてシャボン玉みたいにすぐ割れて変わる物だ。
もしそうなったら、私は何も言わず離れるだろう。先輩が望むのなら、刺し殺されてもいい。私は徒花を模したカンテラで、すぐに誰かを燃やして傷付ける事が出来る。やれと言われたら、ちゃんとやる。
多分私の好きは他の人の好きとは毛色が異なるのだろう。普通は相手の思い通りになんて動かないだろうし、相手に委ねるにしても限度がある。
私と先輩の出会いには何も特別な事は無かった。
だから多分これは、私の本来の性のせいだろう。人より少し独占欲が弱くて、自分で決める力が弱い。それだけの事だ。
思考にマイナスを混ぜたくない。マイナスが混ざれば否定的に、否定的になれば排他的に、排他的になれば自暴自棄に、自暴自棄になれば孤独になる。孤独は怖い。一人でこの世界を生きる力は私には無いから。
だから先輩が羨ましい。好きな物に熱中して、一人でも人生を楽しんでいる。瞳の中に在る熱に、私はきっとあてられている。
考え事のせいで、いつの間にか月は雲に隠れて、暴力的な緑が窓から見え始める様になっていた。
寝息を立て始めた先輩の額に密かに、キスをした。
それだけでもう、ハッピーだった。
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