もう傷つきたくない

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もう傷つきたくない

 オセロが飽きるほど推しとは何ぞやについて飼い主さん宅にお邪魔して語り合っている。オセロはゴロニャンとふて寝。 どうやって飼い主さんの幽体離脱を治したかというと…。飼い主さんの推しのバンド鴎島文鳥のボーカルの悪口をこれでもかと連呼した。それだけ。怒り心頭で飼い主さんは戻ってきた。 「で、この曲のPVの2:34は何度リピートしてもカッコよくて」 「わかる~カッコいいよね。鴎島文鳥の音はキレがある。ところで推し変しない?」 「えー。でも、もう傷つきたくないなぁ」 「そうしたら、また推し変すればいい。広く浅く色々な沼に浸かるのが沼を楽しむコツかも」 「幾つくらい沼を掛け持ちしてるんですか?」 「主に3つかな。ライトなのも入れると5つ」 「でも、そういうのは推しとは言わないんじゃないですか?ただのライトファンで」  私とオセロの飼い主さんの間に緊張が走る。ただならぬ気配にオセロが目を覚まして、ネズミのおもちゃに狙いを定める。そーっと、追いかけてパッと飛び付いて遊ぶ。軽やかな足取りで音も立てない。猫はまるで軽業師だ。  ボール、ネズミ、色とりどりの猫じゃらしやリボンを華麗に可愛い手足と爪で操る。 「オセロ、いい子だね~。ネズミ取り上手」 飼い主さんはデレデレ。うん、やっぱり猫の下僕だわ、この人も。昔は猫を飼ってた私。飼い主のデレデレぶりと猫のクールさ、この温度差をとても懐かしく感じた。 「じゃあ、ライトファンでいいんじゃない?推しの結婚で幽体離脱するほどショックを受けるって尋常じゃないダメージだよ。推しじゃなくて違う何かのライトファンになるとか?」 「それならなんとか気持ちの持っていき方がわかるかも。なんかやっと…少しだけ現実に戻れるかも。すみません、名乗り遅れました。柳川紗奈と申します」 「こちらこそ、水谷律子です。柳川さん…。答えにくい質問かもしれないけれど一つ聞いていいかな?」 「ハイ…あまり傷つく事じゃなければ…」 「柳川さんは推しの結婚がショックで幽体離脱した訳じゃないでしょ?」 「え?…推しの結婚がショックで幽体離脱したんですけど?」 「じゃあ、オセロちゃんはどうして足音がしないの?」 猫のオセロは、まん丸な目を見開いて私を見ている。何かを期待するように鼻の側の髭が生えている所が両側ともぷっくり膨らんでいる。 「え?猫って足音は静かですよ」 「じゃあ、なんでオセロちゃんにはなぜ影がないの?」 「水谷さん、何か勘違いしたんじゃないですか?オセロは人間と違って小さいから」 「じゃあ、どうして猫独特の口の臭さや猫トイレから強烈な臭いがしないの?」 「酷い!私は確かに推し活ばかりしてましたけど、オセロのブラッシング、お風呂、歯磨き、トイレ、全部ちゃんとやってましたよ!」 「マメにオセロちゃんの世話をしてたから、悲しかったんでしょう。推しの結婚で幽体離脱したんじゃなくて、オセロちゃんを看取ったショックで幽体離脱した。カリカリも猫缶もスティックおやつも、生きてる頃と変わらないように買いに来てた」 「もう帰ってくれませんか!初対面なのに不愉快です」 「まあ待てよ、そのおばさん、霊感めっちゃ鋭いわ。やっぱり、わかってたのか?」 オセロがゆっくりと喋り出す。 「霊感はないけど、猫が好き。昔飼ってたの、スコティッシュフォールドを。オセロちゃんは不思議だった。見えるのに気配や臭いがない」 柳川さんはオセロを抱き寄せて、途切れ途切れに呟く。 「生き…生きてるもん…オセロは!」 「うん、オセロちゃんの姿が霊感ゼロのおばさんに見えるくらいだから、オセロちゃんの魂はちゃんと生きてる。だからさ、幽体離脱するのはもう止めたら?」 「私に何の心配も要らない状態になったら…オセロは…もっと遠くに行っちゃうかも…追いかけられない遠くに…嫌だよ、そんなの…」 「どこにも行かねーから!もう泣くなよ!」 オセロの得意顔。私は少女漫画並みのオセロのクサイ台詞に笑いを堪える。でも、オセロが少しだけカッコよく見えた。 「心配だからいるんじゃなくて、居たいからいるニャン。このおばさんを巻き込んでも何とか紗奈に気づいて欲しかった。見えるとか見えないと些細な事は関係ない、僕はずっといる」 オセロがざらざらとした舌で、柳川さんの手を舐めている。柳川さんのこぼれ落ちた涙は少しずつ乾いていった。 「幽体離脱止めてみました…。流行るかな?」 寒い、マイナス50度の冷気が吹き抜ける。でも柳川さんに滑ってるとは言えない。 「めっちゃおもろいよ。何それ、ウケる!」 私が笑うとオセロも猫にあるまじき大笑いをしてみせた。猫はお澄まし顔で笑う動物なのに。 「一番面白い!今年の一発ネタ大賞だニャン」  柳川さんは幽体離脱を止めてみたらしい。  それからしばらくして、柳川さんはカリカリ、猫缶、スティックおやつの代わりに、スーパーのテナントのお花とお線香を買いに来て、私のレジに並んでくれた。 「いても、見えなくなっちゃって…」 「でも、影が…薄いけどほらそこの足元…。大きさからしてオセロちゃんだよ?」 「ハイ…。私が幽体離脱しなくなってから、薄い影だけが見えるんです。ハチワレの黒と白」 「うん、ちゃんと見守ってくれてる」 「どこに行っても薄い影になって追いかけてきてくれるんです」 「招き猫ならぬ、守護猫ちゃんだね」 それからの柳川さんは、定期的にお花とお線香を買いに来てくれて、幽体離脱することはなくなったらしい。柳川さんの後ろにはいつもハチワレ猫の黒と白の影がうっすら追いかけてくる。垂れた耳でわかる、オセロちゃんだと。 (了)
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