影が薄くなる

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影が薄くなる

 仕事が終わった私はあの不思議な猫を探す。スーパーの出入口の外にあるベンチでは、菓子パンが宙に浮いて少しずつ齧られて消えていく。食べる人だけがいない。それなのに買い物で行き交う人は誰もその異変に気づかない。 「お待たせドラネコ、仕事終わったよ」 「誰がドラネコじゃ!この可愛い垂れ耳と去勢手術で甲高いままの声。目に入らぬか!耳に届かぬか!こちらにおわす猫は何を隠そう…」 「有名時代劇みたいな台詞は要らないって。スコティッシュフォールドでしょ、あんた」 「人の台詞を取るな!いかにも、愛くるしい顔No.1のスコティッシュフォールド様だ。名前はオセロという」 「名前はまだないってお決まりの奴はないのか。確かに白黒だしオセロ。ぴったりな名前だね。それで、飼い主さんはどうしてこうなったの?」 「それがだな…。この下僕は追っかけという愚行に現を抜かしていた。俺様を家族に預けて下僕の癖に、休みの日はライブ、イベント、発売日と出掛けっぱなし。下僕失格。こんな可愛い俺様を放っておく。しかも推しの某とやらが結婚すると聞いて、ショックで幽体離脱までする体たらく。仕事を休むくらいならわかるが幽体離脱だぞ?」 「うーん。なかなか複雑で深刻な問題だね」 「そんなに深刻か?推しはただの偶像だぞ?」 「人によるからね、推しへの思いは。でもさ、幽体離脱したら仕事は休むという次元を越えて無断欠勤じゃ?」 「それがな、プライドだけはいっちょまえに高い下僕は、仕事となると器用に肉体と魂を合体させる。推しの結婚にショックを受けても、仕事を休む訳にはいかないと体裁を作る。ただし、仕事が終わると肉体と魂が分離してしまう。だから影が薄くなる」 「でも、他の人には姿が見えてるっぽいよ」 「一応人の形は保っている。下僕がいないように見えたお前は霊感が鋭い」 「私は霊感ゼロだよ?なんでそんな風に見えたんだろう。げぼ…じゃなくて飼い主さん、ちょっといいですか?」 「……」 「無理だ。今、下僕の魂はここにいない」 「どこにいるの?」 「推しの某の所じゃないか?あの馬鹿な下僕が幽体離脱したら真っ先にやりそうなことだ」 「飼い主さんの推しは誰なの?」 「ロックバンド、鴎島文鳥のボーカル」 「知ってる!若い子が好きってよく言ってる。結婚したんだ、まあそういう年齢だよね」 カサッカサカサ…。菓子パンの空袋がぐしゃぐしゃになっていく。幽体離脱したのに猫のオセロの飼い主さんが怒ってる? 「飼い主さーん!実はすぐそこにいるんじゃないてすか?」 「……」 「どうせダメさ。影が薄くなってるから呼び掛けても無駄。下僕の家族なんか、この透明感と影の薄さに慣れるまでに3ヶ月も掛かった」 「オセロが呼び掛けてもダメなの?」 「反応するときと反応しないときがある。今日は無理だな、影の薄さでわかる」 「流石飼い猫、以心伝心」 「なあ、どうやったら下僕のこの幽体離脱が治るかわかるか?」 「そうね…。推しの傷は新しい推しで癒す!」  猫のオセロはシラッとした三白眼で呆れている。しかし、オセロの隣の空間が一瞬だけ揺らめいた。菓子パンの空袋はゴミ箱へと投げ入れられて、ほんの少しだけ人の気配も感じる。 これはいけるかも…。
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