八十八夜

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 私は五年前に結婚して、しばらくの間は街中のアパートに夫とふたりで暮らしていた。  転勤ついでに家を購入しようと、昨年、この土地へやってきたのだ。  市街地からバスで一時間かかるこの辺りには、広大な敷地を持つメーカーの研究所がある。  そのまわりに住宅地、学校、スーパーがあり、メーカーの社員とその家族が住み、学校に通い、スーパーへ買い物に行く。  スーパーでパートをするのも社員の家族である。  近所のみなさんは、研究所で働く人たちやその関係者である。私の夫も社員である。  アパート住まいの間は私もフルで働いたけれど、引っ越しを機に通勤圏から大分離れてしまったのでそこは辞め、今はパートで働いている。  朝起きてはじめに今日は何をしようか考え、床の隅に残る灰色のわたゴミを追ったり、便器や洗面台や浴槽の水垢を落としたり、その日にしか安くならない卵や肉を求めて自転車を走らせたり、土の上にしゃがみ、軍手越しに草をつかんで引き抜いたり、箒でタイルや石の上に落ちた葉や砂をきれいに掃きだすことに一日の大半を費やすことを毎日続けてきたけれど、私は今、それにふさわしい感じに変わってきただろうか。  一年前には、同じ時間には、ぴしっと張りのある素材のスカートのすそをさっさとさばき、硬いヒールの靴音を響かせ、手には文字のたくさん入った書類、座る椅子はパソコン画面の前で、姿勢を正して入力に集中しながら周りにいる人々の視線をぼんやり意識して、ランチを食べる時の足元をきれいに斜めに流して、常に緊張感を失わないように気をつけていたけれど。  時間は伸び縮みする。  通勤に使っていた一時間のうちに家中隅々まで掃除したり、豆の筋をむくだけで終わったり。  アパートにいた頃は蚊やゴキブリを見つけてはすぐ殺していた。家を買って庭いじりをするようになってからはそこらじゅうにあまりにも虫がいるために、一つ一つを殺して歩くのも途方もない気がして、なんとなく見逃しているが、今朝の虫に関しては、大きすぎた。あれとは共存できない。
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