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「ごめん。風邪引いた。明日はひとりで楽しんできて」
ある金曜日の午後、真知子がいつものように大学のカフェでゼミの発表の準備をしているとスマートフォンに秀哉からのメッセージが届いた。真知子はまず秀哉の身を案じた。それを伝えるための文面を考えていると、続けざまに秀哉からメッセージが届いた。
「熱もあって、咳も止まらなくて、喉が痛くて声を出しにくいから電話はちょっと無理」
真知子はこのメッセージを読み、秀哉の病状が芳しくないということが分かった。それで
「大丈夫?ちゃんと病院に行った?」
と真知子はメッセージを返すと、すぐさま
「近所の開業医に行った。先生はただの風邪だって言ってたよ」
と返事があった。
秀哉は真知子と同じく一人暮らしをしているので、生活に支障がないか、という心配もある。
「食べる物はちゃんと用意してある?必要な物を言ってくれれば私が買って持って行ってあげるよ」
と真知子はメッセージを送る。その後、少し間を空けて
「真知子にうつすといけないからうちに来るのはダメ。食欲はあるよ。家にある食料で大丈夫だと思う」
秀哉らしい気遣いだな、と真知子は思った。それで
「分かった。でも、何か助けが必要なら言ってね」
とだけ伝えた。
「了解。それで、明日の演劇のことだけど」
と秀哉は一旦メッセージを区切った。
真知子と秀哉は同じ大学に通う大学生で交際している。
ふたりはそれぞれの学業やアルバイトなどですれ違いを続けていて、明日は久しぶりのデートとなる予定だった。
秀哉は「劇団:空飛ぶ鉛筆」という東京の劇団の舞台を一緒に観よう、と提案して、真知子も同意した。真知子は演劇には詳しくないが、秀哉が勧めるものならば良い舞台であるに違いないと信じている。
「劇団:空飛ぶ鉛筆」が真知子の住む街へ出張公演を行うのは3回目だそうだが、今回はインドの独立運動と「塩の行進」を題材とした「人の歩みは道となる」という演目を上演する。
楽しみにしていた観劇だが、秀哉が一緒じゃないのならばきっと喜びは半減するだろう、と真知子は悲観的な予想を立てた。
「チケットは劇団の公式サイトで予約して、電子決済で料金も払ってある。会場の受付で俺の名前を伝えるだけでチケットを受け取れるよ」
真知子はそこまで読んで、世の中が随分と便利になったことに驚かされた。
秀哉は続けて
「2枚チケットがあるから誰か真知子の知り合いと一緒に行ってね」
と提案してくれた。真知子には一緒に演劇を見に行ってくれそうな友人は思い当たらないが
「分かった。とにかくしっかり休んでね」
とだけ伝えた。
「あと、会場だけど」
と秀哉は公演の行われる会場について説明をした。
劇場ではなく「堀井別館」という古い洋館で公演を行うのだった。
アクセスについては劇団の公式サイトに記載があるからそれを参考にすれば良いとのことだった。
これだけ伝えれば大丈夫だろう、と秀哉は安心したようで
「じゃあ、ちょっと寝るわ」
とメッセージを送り、それに対して真知子は
「うん。しっかり休んでね。お大事に」
と気持ちを伝えてチャットを終えた。
その夜、真知子は書店でのバイトを終えて帰宅すると、ベッドの上に並べられた洋服を片付けた。観劇に行く時に着ていく服を選ぶためにあれこれと悩んでいたのだが、秀哉がいないのなら着飾る必要もない。明日は普段着で出かけることに決めたのだ。
その翌日の土曜日はよく晴れていた。
真知子は白地に青いラインの入ったボーダーシャツと黒いコットンパンツを身にまとい、グレーのニューバランスのスニーカーを履いて出かけた。手にしたキャンバス地のトートバッグの中に万が一、空調が効きすぎた場合も考えてグレージュのカーディガンの他に劇団の公式サイトからダウンロードした地図とペンケースとモレスキンのノート、そしてスマートフォンが収めてあった。
自宅からバスと電車を乗り継いで公演の会場となる「堀井別館」の最寄り駅に辿り着く。
開場時間の1時間半前に最寄り駅まで到着したのだが、真知子には依然として心の中に大きな不安があった。
真知子は方向音痴なのだ。
今はスマートフォンに道案内をしてくれる機能がついているが、真知子はそもそも地図を読むのが苦手なので心許ない。
ましてや初めて下車する駅の周辺なので土地勘など全くない。
それでも自力で目的地へ向かうしかないのだ。真知子は覚悟を決めて地図を片手に一歩を踏み出した。
30分後、真知子は見事に道に迷ってしまっていた。
この駅の周辺は坂道が多く、交差点は三叉路や多叉路など不規則な物が多いため、知らぬ間に道の向かう方向が変わってしまうことが多く混乱した。
スマートフォンのナビゲーション機能を使おうとしたが、「堀井別館」と入力してもアプリの地図上にその施設が表示されないから埒が明かない。
真知子はスマートフォンと地図を持って右往左往するばかりであった。
秀哉に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
せっかくチケットを取ってくれたのに、体調が悪いのにわざわざ連絡をくれて教えてくれたのに。
私は道に迷って会場に辿り着くことすら出来ない。
真知子は泣きたいのを必死に堪えた。
するとその時、真知子の背後から
「お困りですか?」
と女性の声がした。
真知子が声のする方を振り向いて見ると、ひとりの女性が立っていた。
その人はフレームのない眼鏡をかけ、長い髪をポニーテールにまとめている。
白いブラウスの下は会社の事務員さんが着ているような紺色のスカートを履いていた。
大きな黒いショルダーバックを左肩に掛けている。重そうだった。
顔をよく見ると中々の美形で、こんなに綺麗な人が似つかわしくない地味な服装をさせられていることにいささかの憐憫を覚えた。
この人は近所の会社で働いている事務員さんなのだろうか?いや、それにしては若すぎる、などと真知子は考えを巡らせたが、今はこの人を頼るしか他に選択肢は無さそうなので、ご厚意に甘えることにした。
「すみません。実は『堀井別館』というところに行きたいのですが道に迷ってしまいまして。ご存じでしょうか?」
と真知子は率直に尋ねた。
するとその女性は少し微笑んで
「分かりますよ」
と答える。真知子は驚いて
「ありがとうございます。この辺りの方でしたか。助かります」
とお礼を伝える。するとその女性は
「いえいえ。でも、私はこの近所に住んでいる訳じゃないですよ。学校が近くにあるんです」
と答えた。真知子はさらに驚いて
「学生さんだったのですか!」
と尋ねると、その女学生は自分の着ているスカートを指さしながら
「はい。これは高校の制服なんです」
と答えた。
そういえば、と真知子は自分が高校時代に着ていた制服を思い出した。よく考えたらデザインの地味さに関しては自分の母校もこの学生さんの高校とどんぐりの背比べであった。
「ここから『堀井別館』までは近いですよ。私が案内します」
とその少女は提案した。そして、こう付け加えた。
「私も今からちょうどそこに行くつもりだったんですよ」
真知子は
「よろしくお願いします」
と言って深々とお辞儀をした。
ふたりは連れ立って「堀井別館」に向かう。
通りを一本渡って右折して、なだらかな傾斜の坂道を上がり、小さなお寺の脇にある曲がりくねった細い道を通り抜けると、立ち並ぶ一戸建て住宅の中に二階建ての古い洋館が現れた。
門の表札には「堀井健作記念館」と表記されている。
真知子が表札を眺めていると、連れの高校生は
「それが正式名称で、『堀井別館』というのは通称なんです。通称の方が有名なんですが。だからスマホのナビゲーション機能が使えなくて、私も初めて来た時には苦労しました」
と説明した。
門をくぐると立派な玄関があり、ふたりは靴を脱いで上がり備え付けのスリッパを履いた。
室内の調度品は年代物だがしっかり手入れされているのが分かった。
「ホールへはの順路はあちらのようです」
と連れの少女が指差す方を見ると、そこには公演が行われるホールへの道順を示す案内が貼られていた。
「ありがとうございます」
と真知子はお礼を言った。
記念館を見学しに来たであろうと思しきこの少女とはここで別れて別行動になるだろうと真知子は予想していたのだが、意外なことに真知子と少女は同じ方向へ足を踏み出した。
一瞬間を置いてから、不思議なおかしみがこみ上げてきてふたりは自然と笑顔になった。
「お姉さんも舞台を観に来ていたのですね。てっきり観光客の方だとばかり思っていました」
と少女は笑顔のまま言った。真知子は
「はい。私もあなたが郷土史について調べるためにここへ来たのだとばかり思っていました。お芝居がお好きなんですね」
と答える。すると、少女の顔がわずかに陰る。
「はい。この舞台は楽しみなんですが、私はチケットを買いそびれてしまって、当日券がないか、立ち見で観られないか、と今から交渉するつもりです」
と少女は自分の意図を語り、ため息をついた。
その様子を見て真知子は心を決めた。
案内に従いホールの入り口まで来ると、そこには前面に「受付」と書かれた紙の貼られた長机が置かれ、黒いロングTシャツを着たショートカットの女性が観客たちに応対していた。
「今度は私がお返しをする番です。あなたは後ろで待っていて下さい」
真知子は少女にそう言って受付を待つ人の列に並んだ。
数分後、真知子の番が回ってきた。
すらっと背の高い女性スタッフは首からネームプレートを下げており、そこには「香椎」と手書きで書かれてあった。真知子は香椎に秀哉の名前を伝え
「本人は今日、来られないのですが、チケットを受け取れますか?」
と確認した。すると、香椎は手元にあるノートパソコンをしばらく操作して
「確認のため、予約を取られた方の電話番号をお教えいただけますか?」
と尋ねた。真知子はスマートフォンを取り出してアドレス帳に入っている秀哉の電話番号を伝えた。すると、香椎は
「確認が取れました。ご本人さんからも事前にその旨を御連絡いただいておりますので大丈夫です。チケットはこちらになります。予約された席ですが」
と座席表を指し示し、チケットに印字された番号と照合しながら
「三列目の下手側の端から2席です」
と伝えた。
真知子は映画館やコンサートでは端の席を取ることが多い。
何かの拍子にそんなことを話したと思うのだが、それを秀哉が覚えてくれていたことがとても嬉しかった。
「私はチケットを2枚持っているのですが、1枚余っていますのでこれを他の人に譲っても良いですか?もちろん転売なんてしません。ただで渡すだけなのですが」
と真知子は確認をした。香椎はやや困り顔になって
「どういうことですか?」
と尋ねる。真知子は
「この会場まで私を連れてきてくれた高校生の子がいるのですが、その子はチケットを持っていなくて、それでお礼としてチケットを渡したいのです」
と具体的に説明した。すると香椎は
「お客様がその高校生の方と御一緒に会場までいらっしゃった、ということでしたら、その方はお客さんのお連れさんになりますよね。それでしたら、お連れの方にチケットを渡すことはごく自然な行為だと思います。ですから、構いませんよ」
と答えた。
真知子はその説明が腑に落ちた。
「最後にもう一点だけ。当日券はありますか?」
と真知子が尋ねると、香椎は
「ありません。逆にキャンセル待ちの方が数名、会場の外で待っておられるくらいです」
と答えた。
「お忙しいところ、丁寧に対応していただき、ありがとうございました」
お礼を言って、受付から離れ、真知子は連れの少女の元へ行きチケットを渡した。
少女は最初のうちはチケットを受け取ることを躊躇していたのだが、真知子が「当日券はない」という事実を伝えると潔く降参して
「ありがとうございます」
と礼を言い、素直にチケットを受け取った。
開場時間になり、ホールの中に一歩足を踏み入れると、真知子はその内装の華やかさに心が躍った。長い時間を経て古びているがそれが却ってこのホールの品格を上げているようだと感じた。
ホールの広さは真知子の通う大学の小講義室より少し大きいくらいである。
ホールの後方にはこの場所に似つかわしくないパイプ椅子が並んでおり、椅子の上にパンフレットや他の演劇公演のお知らせが置かれ、その紙の束の上に数字の書かれた付箋が貼ってあった。
真知子とその連れは自分たちの席に腰掛けた。
もちろん真知子は端の席に座った。
ほどよく観客が席に着いた頃
「上演中は携帯電話やスマートフォンの電源をお切り下さい」
というアナウンスが入ったので、真知子は自分のスマートフォンを取り出して確認した。
「舞台を楽しんでね。後で感想を教えてよ」
と秀哉からメッセージが来ていた。
「うん。分かった」
と真知子は返した。
それで電源を切ろうとすると、隣にいる少女から
「ちょっと待って下さい」
と止められた。怪訝そうな顔で真知子は
「どうしたの?」
と尋ねると、少女は真知子の顔をまっすぐ見て
「もしよろしければ、私と連絡先を交換していただけませんか?いずれちゃんとお礼をしたいので」
と伝えた。
高校生か、と真知子は一瞬だけ戸惑ったが、この頼もしいしっかり者なら良いだろうと考えて、連絡先を交換することにした。
真知子はトートバッグからペンケースとモレスキンのポケットサイズノートを取り出した。ボールペンでノートに自分の名前とメッセージアプリのID、それから通っている大学名を書いて、そのページを破って相手に渡した。
「あそこの大学に通っているんですね」
と驚いてから少女はその紙片を丁寧に畳んで、長財布の中に収めた。
ボールペンとノートを相手に渡すと、連れの高校生も同じように自分の名前や高校の名前を記載した。ノートを返す際に
「こういうノートは初めて使いましたが良いですね。どこの製品ですか?」
と訊かれたので、真知子は
「モレスキンです。色々なサイズがありますよ。表紙の色も選べます」
と答えた。すると少女は有名な文房具店の名を上げて
「あのお店には売っていますか?」
と尋ねたので、真知子は
「私も家の近くにあるそのお店で買いました。ネットでも買えますが、お店で実物を見てサイズ感を確認した方が良いと思いますよ」
とアドバイスをした。
真知子は受け取ったノートに目を落とす。この少女は「中野律」という名前だった。通っている高校の名前も聞いたことがあった。多分、大学の知り合いの中にその高校の出身の人がいるからだろう。
真知子はスマートフォンの電源を切ってモレスキンのノートやペンケースと一緒にトートバッグに収めた。
すると、しばらく思案していた律が
「チケットのお礼として、例えば、この本を受け取って頂けませんか?」
とショルダーバックの中から一冊の単行本を取り出した。
その本はヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」だった。
真知子はとても驚いた。
律はこういう本を読んでいる人だったのだ。
「律さんの大切な本でしょ?だから受け取れません」
と真知子は断った。だが、律は
「何度も読んでますから構いません。また読み返したくなったら買い直します」
と引かなかった。
ちょうどその時、開演を知らせるブザーの音がホールに響き渡った。
徐々に照明が落とされて場内が暗くなっていく。
真知子は律に向かって
「律さんにはチケットのお返しとしてもっと大切なことをお願いします」
と言い、そこで一旦言葉を切って、声のトーンを落とした。
「お願いだから私と一緒に帰ってくれませんか?出来れば駅まで」
真知子はささやいくように言った。
クスッと笑う声がした。
「もちろん、良いですよ」
と律も小声で優しく答えた。
そして、幕が上がる。
(了)
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