光売り

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 「そんなに気を使わなくていいって」  功介が苦笑する。その顔は闇で見えない。  禅介は彼の目に光がないことを知ってから、彼の足取りに気を配るようになった。  しかしそれは余計なお世話なようで、功介は杖を頼りに難なく歩いていく。むしろ禅介の方が何度も転びかけたり、地面のゴミを蹴飛ばしたりと散々だった。  「誰でもこんなに速く歩けるわけじゃないぜ。俺は目が見えなくなってからかなり練習を積んだからな」  (いわ)く、平坦な道では速く歩く練習をし、凹凸(おうとつ)に富んだ道では(つまず)かずに歩く練習をしたという。ある程度できるようになったら、今度は走りに挑戦した。  「しょっちゅう怪我したなぁ」  「もともと動くのが好きだったの?」  「うん」  光売りがいたときに見えたが、功介は恵まれた体格をしている。着やせしているのだろうが、袖から覗く腕にしなやかな筋肉がついているのは隠しようもなかった。禅介も運動はよくするが、筋肉の付きはあまりよくなかった。細くて長い脚がただ自慢である。  「功介、目の光を買ったらさ、競争しようぜ」  「どっちが速いかって?」  「そう。俺も学校で上の順位なんだ」  言ってから気付く。この夜が明ければ、功介と再び会う日は訪れるのだろうか。  禅介は功介の下の名前と歳しか知らない。功介も同様だ。どこに住んでいて、どこの学校に通っているのか、そういった話はまだしていない。歩き慣れているのだから、功介がこの辺りに住んでいることはなんとなく察しがつくが、今まで会ったことがないのだからこれからも偶然会えるとは限らない。  しかし、それを聞く気にはならなかった。   二人は光売りという存在によって人生が交わった関係だ。そうでなければ関わることのなかった、突き詰めれば二つとない特別な関係だった。彼となら都市伝説だと鼻で笑われるようなことを共有できるし、それを求めて夜を歩くことができる。  もしお互いが出自を明かしてしまったら、この関係はありふれた、全く特別でないものに成り下がってしまうのではないかと思った。  だから、禅介は功介に住所や学校などの情報は聞かないことにした。  だけど、約束だけは――目に光を取り戻した彼と走ることだけはしたいと思う。  この夜が明けて、もし再び会うことがあれば、まだ特別な関係は続いているということではないだろうか。  無理やり結論を導き出して、禅介は一人嬉しい気分になった。  杖がコツンコツンと二回続けて鳴った。  「光売り、いないな。禅介から見えない?」  「見えない。あのシャツの光売りも居場所知らないみたいだったし」  「もしかしたら、もういないかも……?」  禅介は答えなかった。  前を通りかかった家の窓から光が漏れている。カーテンの向こうに人影が見えた。テーブルを挟んで向かい合っているらしいその二人は何を話しているのだろうか。  窓からの光を頼りに手の平を観察する。手相も血管も確認できない。光が足りないのだ。街灯は依然と点いていない。  この街灯は光売りがいなくなっても消えたままだろうか。  考えても仕方がないが、静かな夜を歩くには何かを考えずにはいられない。  「なあ」  功介の声だ。  「禅介はさ、結局光売りには用はなかったんだよな」  禅介は考える。足が小石か何かを蹴った。  「そうなるかもしれない」  「人魂は君から出ていってなかったんだものな。かえって新しい人魂が増えちまったわけだ」  「まったくだ」  功介は黙り込んだ。何を考えているのか、禅介には測りかねた。  「もしかして、気を使ってるのかよ」  「そうじゃない。だけど十六歳が深夜に都市伝説求めて歩き回ってるなんて心配だろうが」  禅介は功介の肩を叩こうとしたが、視界が悪いため空振りしてよろめいた。  「馬鹿野郎。功介先輩だって十七歳ですよね? 家に帰って寝ないと明日寝坊しますよ」  「俺は朝はしっかり起きる人間だ。君より一個上だからね」  「言いたかったのはそれかよ」  むくれた禅介に功介はふはは、と笑った。ごめん、ごめん、と軽い調子で繰り返す。  「違うんだよ。からかいたいわけじゃないんだ。俺はただ、禅介が今夜のことを無駄足踏んだって思ってるんじゃないかと思っただけだよ」  彼の声音がふいに優しくなる。その声は一年の人生の差よりもずっと彼を大人に感じさせた。  「お前、軽い調子だけど、自分の体から魂が抜けたと思ってたんだから相当怖かったんじゃないか。不安に思ったりしたはずだよな。四年間、自分が魂をなくしてる状態だったら、俺なら発狂してるかもしれない」  いつの間にか二人は歩くのをやめていた。  禅介は功介の話を聞いているうちに心細さを覚えた。鳩尾(みぞおち)辺りを撫でられているような感覚がする。  彼の声音や口調に、遠い昔感じた不安が蘇ってくる。学校で牛乳をこぼしてしまっても何も言われず、どうしていいかわからなかったときのこと。そのとき感じた無力感。母にわがままを言っても突き放されることなく、許すように微笑まれたときのこと。そのときの罪悪感に似た胸の温もり。  魂が自分の口から出ていってから、徐々にその居心地の悪い感情も消えていくような錯覚に陥ることが何度もあった。禅介だからこそ感じる名前のない感情が、喜びや怒りといった確かな感情の裏に隠れてこっそりいなくなってしまうのではないかと恐れた。禅介を禅介たらしめているのは喜怒哀楽ではなく、思い出に直接(ひも)づいた得体のしれないざわめきだった。それを失ってしまったら、自分は自分でいられなくなる気がした。  魂がいなくなった今、いつか自分も消えていくのだろうか。  不安で仕方なかった。  しかし、それはただの錯覚に過ぎない。今夜、それが証明された。  功介が続ける。  「魂が出てなくてよかったよな。でも、存在するかもわからないものをずっと待ってて、やっと会えたのに、あなたの魂は出ていってませんって……まあ、安心はするけど、この四年間の不安は何だったんだって思わないか」  禅介は功介に尊敬の念を持った。初めて会った相手の未知の気持ちをここまで考えて言い当てることができるなんて驚きだし、嬉しくもあった。  「功介の言いたいこと、大体合ってる」  腕を伸ばす。今度は触れることができた。彼の肩に手を置く。  「すごい不安だった。だから墓場に探しに行って……じいちゃんのところは見尽くしたから、他の場所もたくさん回った。誰にも相談できなくて、信じてもらえないって考えるのがすごく怖くて、辛かった。いつか自分の体も消えるんじゃないかとも思った。だけど、一番怖かったのは俺が俺じゃないんじゃないかって思うことだった。体は俺だけど、一番大切なところが魂と一緒に消えてるんじゃないかって」  功介の肩をにぎる手に力が入る。光売りと話しているときの功介も同じように禅介の肩をつかんでいた。もしかしたら彼も不安だったのかもしれない。  「だけど、今夜それがただの勘違いだってわかったから。俺は俺のままだって判明した。じゃあ、俺の大事な感情がなくなっていくのも嘘だったのかな」  魂を失う前の禅介と、失ってからの禅介は違う。  失ってからの禅介と、失っていないことがわかった禅介も違う。  では、魂を失う前の禅介と、失っていないことがわかった禅介は?  「違う」  いつの間にか功介の肩に爪を食い込ませていた。それでも力が抜けなかった。  「違う、俺は俺じゃない」  「そうだよな」  肩をつかまれる。優しい手だった。  「四年前の禅介と、今の禅介は違うだろうな」  禅介の背後で光が灯る。橙色の部屋の明かりだ。誰か夜中に目を覚ましたようだ。  わずかに、本当にわずかに、功介の顔が明かりに照らされて見ることができた。  目が合う。功介が禅介の顔を見ることができなくても、確かに目が合った。  彼はいたずらっぽい笑みを浮かべた。  「四年前の禅介も憎らしかっただろうけどな」  禅介は懐かしい気持ちになった。  友人を怒らせて、喧嘩別れした次の日、友人は何事もなかったように禅介に話しかけてきた。禅介はそれに甘えるように、いつも通りの仲良しに戻った。あの日の申し訳なさを(ともな)う心地よさ。  傘を忘れて大雨の中を歩いていると、見知らぬおじさんが傘を押しつけるように渡してきた。驚いてお礼を言い損ねたがおじさんは気にせず去っていった。あのときの不甲斐なさと安心感。  功介を前に、忘れていた記憶とそれに伴う感情が湧きおこる。  そういうことなのか、と禅介は思った。  変わっただけなのだ。昔の感情は体の奥底にしまわれ、年月を経るとともに取り出して眺めることが減っただけだ。  記憶に残っているものもあれば、忘れてしまったこともあるだろう。四年前の禅介は成長して変わってしまったのだから仕方がない。  ただ、失われてはいなかった。名前を呼ぶに呼べない感情は今でもいくつか思い出せるし、これからもきっと味わうだろう。  「禅介?」  功介が心配そうな目をした。その目を覗き込む。  今夜彼の目に自分の姿が映ると思うと、楽しみでならない。  「功介もさぞかし良い性格をしていたんだろうね」  「うるせえよ。ああ肩が痛い。慰謝料は人魂何個分かな」  「そっちだってさっき思いっきりつかんでただろ。……人魂ってどう数えるわけ」  「知らね。一個、一玉、一人」  「一人は怖いな。間違ってないかもだけど。あっ、猫」  (あや)しく光る二つの玉がこちらを見ていた。  猫の目の光だ。本体もちゃんとある。  「どこにいる?」  「ちょうど目の前。十歩くらい先にいる。可愛いな、暗くて全然見えないけど。……あっ、もう一匹いる! 一つ目の猫だ」  言って、おかしいことに気付く。功介も「一つ目の猫?」と怪訝(けげん)そうな声を上げる。  猫の双眸(そうぼう)の隣に浮かぶ一つの光は、猫とは程遠い動きをしながらこちらへ近づいてきた。ふわふわと舞うように飛ぶそれには見覚えがあった。  「あっ、ちょっと、来るな、近すぎ!」  人魂は禅介の顔の周りを小蠅(こばえ)のように飛び回る。わざと体をすり抜けようとするさまはふざけているようにしか見えない。  「戻ってきたんだ、人魂さん」  「来るなよ!」  ひとしきり遊んだ後、人魂は禅介から離れた。二人が歩いてきた脇道に入っていく。  功介に伝えると、  「ついて来いってことじゃないか? ここ掘れワンワンみたいな」  「あれは犬じゃなくて元は人だぞ」  文句を言いつつも、二人は人魂を追いかける。手がかりもなくさまよい続けるよりずっと頼もしく感じた。  空は黒く、月もない。夜はまだ深い。
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