姉の身代わり・1

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姉の身代わり・1

「お亡くなりになりました」  医者の静かな声に、母が「あぁ!」と声を上げて崩れ落ちた。畳の上で泣き崩れる母の肩を抱きながら、普段は決して表情を崩さない父の目にも光るものが見える。 「姉さん」  やけに整っている布団に近づいた僕は、真っ白な姉の頬にそっと触れた。まだ温かいからか眠っているようにしか思えない。それでも僕の呼びかけに目を開けることもなく反応もしないということは、本当に死んでしまったのだ。 「姉さん」  最後まで首につけていた桜色の首飾りをそっと外した。これにずっと縛られていた姉だったけれど、もう身につける必要はない。この家に縛り、Ωであることに縛りつけていた首飾りはまるで首輪のように見えた。 「もう姉さんは自由だよ」  それを姉が望んでいたかはわからない。もしかすると本心ではαに所有されたいと思っていたのかもしれない。βである僕には、Ωだった姉の考えていたことは一生わからないだろう。 「それでも、死んでからもこれをつけたままなんて、やっぱり嫌だよね」  ぎゅっと握り締めた桜色の首飾りは、姉の体温を感じさせてはくれなかった。  僕は八歳年上の姉が好きだった。昔から病弱で一緒にいる時間は多くはなかったけれど、いつも可憐な微笑みを向けてくれる姉を心の底から慕っていた。  小鳥のような美しい声が聞きたくて、小さい頃は本を読んでほしいと何度もねだった。鈴のような声で笑ってくれるから、学校であったことを一生懸命話して聞かせたりもした。僕には姉しか好きになれる家族がいなかったから、全身全霊で姉を慕った。  その姉が死んでしまった。もう僕に家族はいない。この家に留まる理由もなくなった。 (家を出よう)  姉の葬儀が終わったから家を出て行こうと心に決めていた。両親に挨拶をし、僕のことも家のことも知る人がいない遠い街で生きていく算段もつけていた。ところが挨拶に向かう前に父に呼び出されてしまった。 (僕を呼ぶなんて初めてだ)  どうしたのだろうと少し不安に思いながらドアを開けると、喪服を着たままの父がソファに座っている。 「お呼びでしょうか」  父は返事をすることなく、視線で向かいのソファに座るように促してきた。そうして僕が座ると「おまえには珠守(たまもり)家に行ってもらう」と言い出し驚いた。 「それはどういう」 「先方からおまえでもよいと返事をもらった。明香莉(あかり)の代わりにおまえに行ってもらうことが決まったということだ」  質問を遮るように告げられた言葉に何も反応できなかった。  珠守(たまもり)家というのは、姉・明香莉(あかり)が嫁ぐはずだった家だ。僕も許嫁の修一朗(しゅういちろう)さんには何度も会っているからよく知っている。姉が病弱でなかったなら、とっくの昔に輿入れしていたはずの相手だ。 (でも、嫁ぐ前に姉さんは倒れてしまった)  姉が倒れたのは十八歳の誕生日を迎えた直後だった。それから亡くなる二十七歳まで、姉が珠守(たまもり)家に嫁ぐことはなかった。許嫁である修一朗さんが「病気のまま嫁ぐのは家族も心配だろう」と言って結婚を先延ばしにしたからだ。  その代わりというように、修一朗さんはたびたび我が家にやって来た。婚約した当初ならまだしも、結婚を延期した後まで通うのは珍しい。とくに名家である珠守(たまもり)家の次男が、旧家とはいえ寂れてしまった寳月(ほうづき)の家にわざわざ通うのはあり得ないことだ。  周囲は「それくらい許嫁を思っているのだろう」と噂し、「もしや許嫁は運命の相手なのでは?」と囁いた。 (本当に運命の相手だったのかもしれない)  αとΩに“運命の相手”と呼ばれる関係があることは僕も知っている。それは誰にも引き離せない関係で、強烈に引かれあって結ばれるのだという。  βの僕にそういった関係性は理解できない。ただ、修一朗さんが来るたびに姉が嬉しそうな顔をしていたから好いているに違いないとは思っていた。  その修一朗さんが、姉の代わりに僕を迎えるのだという。 (そんなこと、あるはずがない)  もし僕がΩだったらあり得たかもしれない。いまや虫の息でしかない寳月(ほうづき)家は、権勢を誇る珠守(たまもり)家と何が何でも繋がりを持ちたがっている。それなら死んだ姉の代わりにΩの弟をと考えるのも頷ける。  でも、僕はβだ。βの僕がαの元へ行くのはまったくもっておかしい。βでは子どももできないし、何より世間体が悪いはず。珠守(たまもり)家の次男は男色家かと囁かれては家のためにもならないだろう。  そもそも旧家と言っても、いまの寳月(ほうづき)は名ばかりの家柄だ。逆に成金だ何だと言われていた珠守(たまもり)家のほうが、いまや皇族方とも懇意にするほどの華族同然の扱いを受けている。そんな珠守(たまもり)家が、βの僕を受け入れるほど寳月(ほうづき)の家名をほしがっているとは思えなかった。 「それは、どういうことでしょうか」  かろうじてそれだけ口にすることができた。αの父に面と向かって問いかけたのはこれが初めてだからか、背中に嫌な汗が流れる。こわばる顔を見られないように少し顔を伏せ、じっと言葉を待った。 「修一朗くんに、おまえをもらってくれないかと相談した。渋られるかと思ったが快く受け入れてもらえた。それだけだ」  つまり姉の代わりに僕を差し出し、代わりに寳月(ほうづき)珠守(たまもり)家に連なるということだ。そうまでして……と一瞬思ったものの、βの僕が思ったところでどうすることもできない。  βの僕には寳月(ほうづき)家を盛り立てていくことはできないし、αの父がそれを望んでいないこともわかっている。だから遠くで一人ひっそり生きていこうと考えていたのに、それさえも許されないのだと悟った。 「……わかりました」  そう答えるしかなかった。ただのβでしかない僕は父に逆らうことはできない。これがαでもΩでもない僕の人生なのだろう。 「初七日が明けたら珠守(たまもり)家に行くことになっている。準備をしておきなさい」 (そんなに早く……)  僕が遠くへ行こうとしていたことを知られていたのだろうか。だから逃げられる前に珠守(たまもり)家に押し込めようとしているのかもしれない。 (……そうか、結婚じゃないからか)  祝い事なら憚られるだろうけれど、βの男がαの元へ行くだけなら喪中や忌服であっても問題にはならない。それに父は今回のことを早く形にしておきたいのだろう。僕を物理的に珠守(たまもり)家に預けることで、実質的な繋がりを得たいのだ。  僕は静かに頭を下げて父の部屋を出た。 (こんな形でこの家を出ることになるなんて思わなかったな)  廊下を少し進み、姉の部屋から見える庭に下りた。小さい頃、ここでよく姉と花摘みをしたのを思い出す。大きくなってからも姉と一緒によく庭を眺めて過ごした。 (小さい頃は仲のよいΩの姉弟だと思われていたっけ)  姉と瓜二つだった僕はきっとΩに違いないと思われていた。僕自身もそうだろうと思っていた。  けれど、七歳のときに受けた検査でβだということが判明した。父は無言になり、Ωの母は「どうして」とつぶやいた。αでないことはわかっていたから、せめて使い道のあるΩであれと願っていたに違いない。  Ωが二人いれば、華族としての寳月(ほうづき)家を復活させることができるかもしれない。あわよくば皇族のどなたかに輿入れさせる未来も描けただろう。両親はそう思っていたのかもしれないけれど、それは叶わぬ夢となった。 「あれはたしか……そうだ、千香彦(ちかひこ)というかいう名の長男だ」 「相変わらず美しいな」 「あれでΩでないとは、なんとも残念だ」 「ご当主もさぞかし残念に思っていることだろう」  少し離れたところからそんな声が聞こえてくる。弔問客の誰かだろうけれど、こうした言葉もすっかり聞き慣れてしまった。僕は「ふぅ」と息を吐いて、そのまま庭を通り抜け自分の部屋に入った。  姉に瓜二つだった僕は、成長するにつれて姉とは違う姿に変わっていった。男女の違いもあったのだろうけれど、すらりと伸びた手足と背丈はどこからどう見てもΩには見えない。  ――姉は可憐で愛らしく、βの弟は美しいがΩではない。あれでΩだったなら嫁ぎ先もあっただろうに。  βだとわかった七歳から、ずっとそう言われてきた。いくら美しいと言われても僕はただのβだ。βである限り家の役に立つことはないし、両親に必要とされることもない。 (こんな僕を引き受けなくちゃいけなくなるなんて、修一朗さんも気の毒だ)  修一朗さんを最後に見たのは五日前だ。姉の見舞いに来て、それから僕にハイネの詩集をくれた。おそらく姉と詩集の話をしていたのを覚えてくれていたのだろう。  でも、僕が見たかったのはゲーテであってハイネじゃない。ハイネが好きなのは姉のほうだ。「これは僕宛じゃない」と思ったら、お礼の言葉もうまく出てこなかった。 (あんな子どもじみたことをしてしまうなんて)  きっと気を悪くしたに違いないのに、修一朗さんは「今度は別の詩集を持ってこよう」と言ってくれた。僕は思わず「詩集よりも外国の童話集がいいです」と口にしていた。子どもでもないのに童話集をねだるなんておかしな男だと思ったはず。それなのに修一朗さんは「いいよ」と笑ってくれた。 「童話なら神田のほうがいいかな。詩集なら本郷にもいい本がありそうだけど、まぁあちこち見てみよう」  さすがは修一朗さんだと思った。帝都大学に行く前に私立の大学で外国語を学んでいたと言っていたから、海外の本にも詳しいのだろう。そんな修一朗さんを素敵だと思いながらも内心は少し焦っていた。 (どうしよう)  修一朗さんを煩わせるつもりなんてなかった。本当はハイネでも十分嬉しいのに、修一朗さんにまで姉の付属品のように思われたと勝手に感じてちっぽけな自尊心が頭をもたげてしまった。  だからあんな我が儘を口にしてしまった。それなのに、修一朗さんはニコッと笑って「次に会うときに持ってこよう」と約束してくれた。 (ああ言ってくれたけど、修一朗さんがこの家に来ることはもうないんだ)  次に会うのは僕が珠守(たまもり)家に行ったときだ。そのとき僕は明香莉(あかり)の弟としてじゃなく、姉の代わりに差し出された……何になるんだろう。 (どっちにしても、修一朗さんは快く思わないかもしれない)  いや、「かもしれない」なんて希望を挟む余地はない。βの男を押しつけられるなんてβの男でも嫌なはず。αの修一朗さんにとってはさらに迷惑なはずで、もしかしたら会ってもらえないかもしれない。  そう思ったら胸がツキンとした。修一朗さんに嫌われたかもしれないと思うと、会いたかった気持ちもすぅっと消えていく。 「僕だって、姉さんに負けないくらい本当は……」  思わず口に出しそうになり、慌てて唇を噛んだ。大好きな姉が好いていた修一朗さん。αなのに父と違って温厚で、βの僕にも優しかった人。  大好きな姉の後ろから見ているうちに、僕はそんな修一朗さんを好きになってしまっていた。話しかけてもらうだけで、その日は寝るまでふわふわした気分になった。贈り物を受け取るたびに心が躍りもした。  修一朗さんにもらった詩集やハンカチ、シャアプペンシルや洋紙の便せんはいまもずっと大事に仕舞ってある。もったいなくて使うことなんてできなかった。ハイネの詩集も姉に譲ることなく手元に置いたままでいる。 「……そうだ、準備をしておかないと」  父が初七日が明けたらと言うのだから、明けた翌日には珠守(たまもり)家に送り出されるに違いない。それまでの間に荷物を整理して、不要なものは処分してもらわなくては。 「といっても、もうほとんど片付けてるからすぐに終わりそうだけど」  予定では、今頃南へ向かう汽車に乗っていた。そのために用意した小さな旅行カバンもある。中には着替えと身の回りの物が少し、それに修一朗さんにもらった品々も入っていた。 (そうか、このカバン一つ持って珠守(たまもり)家に行けばいいのか)  僕はそのままにしていく予定だった着物や学校の道具などをすべて処分してもらうことにした。それを聞いたお手伝いさんたちが「まるで身辺整理のようだ」と話していたけれど、あながち間違ってはいない。 (この部屋には二度と帰って来ないのだろうし)  ふと、葬儀のことを思い出した。姉の葬儀は旧家の名に恥じない厳かなものだった。まだこんな葬式が出せる余力があったのかと驚いたけれど、珠守(たまもり)家がすべて手配してくれたらしいと仕出し屋が話していたのを耳にした。そのことに胸がツキンとしたのは、修一朗さんがまだ姉のことを想っているに違いないと思ったからだ。  そんな修一朗さんの元へ初七日が明けた翌日、僕は向かうことになった。
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