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βであるということ1
寳月家にいたとき、僕は華族社会の噂話を耳にすることがほとんどなかった。βの僕が聞いてもどうしようもないし、父も聞かせるつもりがなかったのだろう。僕は大事なΩの姉の相手をするだけの存在で、その役割さえ果たしていればそれでよかった。
(だから、ああいう話は一度も聞いたことがなかったんだ)
今朝少しだけ早起きした僕は、いつもより早い時間に修一朗さんの部屋に向かうことにした。婚姻届を出して正式な伴侶になったものの、僕はまだ最初に与えられた部屋で普段を過ごしている。そのため朝食と夕食は修一朗さんの部屋に行って一緒に食べることになっていた。
修一朗さんいわく「新居を用意しようとしていたら兄姉に邪魔されてね」ということらしく、代わりに東側の庭に離れを建てる計画を進めているそうだ。修一朗さんの兄姉はどうしても僕と一緒に暮らしたいと言っているそうで、いままでも何度かお茶や食事に誘われている。
(そのたびに修一朗さんが断っているけど、いいのかな)
僕としては、修一朗さんの兄姉なのだからきちんとお付き合いをしたいと思っている。だけど、二人ともαだから僕に会わせたくないのだと修一朗さんは言う。
(僕はβだから、そんなこと気にする必要ないのに)
そう思っているのに、やっぱり口元が緩んでしまった。βでしかない僕を大事にしてくれる修一朗さんの気持ちが嬉しい。まるで姉のようなΩになった気分になってくる。
(……いや、さすがにそれは傲慢すぎるな)
小さくため息をつき、「さぁ気分を切り替えなくては」と頭を軽く振る。そうして修一朗さんの部屋の近くまで来たとき、お手伝いさんたちの話し声が聞こえてきた。
「大河原伯爵の奥様、結局屋敷を出られたそうよ」
「まぁ、やっぱり」
「αの旦那様が余所にお相手を作ったとはいえ、奥様のほうが出て行かなくてはいけないなんてねぇ。やっぱりβの奥様だったからかしら」
「同じ女性として胸が痛むわ」
それしか聞こえなかったけれど、どういうことかは僕にも容易に想像できた。
伯爵家の当主が外に女性を作ったという話なのだろう。当主がαということは外のお相手はΩなのかもしれない。そういうときでも、華族なら女主人である奥方が妾として認めるか判断する。子ができれば奥方が引き取って育てるのが華族としての常識だ。ところが奥方がβだったために自らが出て行かざるを得なかったということに違いない。
心臓がドクンと大きく跳ねた。αとβが結婚しても、いずれはそうなるのだと言われた気がして胸が痛くなる。とくに僕の実家は名ばかりで力がなく、離縁したところで珠守家が困ることはない。同じ状況になれば、僕もすぐさま追い出されることになるだろう。
(やっぱりαとβじゃ難しいんだ)
わかっていたことなのに現実を突きつけられたような気がしてひどく落ち込んだ。心を落ち着かせようと、左手薬指にはめた指輪を何度も撫でる。
(いまはまだそのときじゃない。だからうろたえたりしては駄目だ)
それに僕にはこの指輪がある。たとえそうなったとしてもきっと大丈夫。そう思いながら指輪を撫でる。
宝石はとても高価なダイヤモンドだと聞いた。それを支えているのは捻梅という名前の台座で、まるで梅の花の真ん中に宝石が光っているように見える。「千香彦くんには桜よりも梅が似合うと思ってね」と微笑んだ修一朗さんの顔は一生忘れないだろう。
指輪をひと撫で、ふた撫でして深呼吸した。沈んだ顔をしていたら駄目だと気持ちを切り替えて部屋に入る。それなのに、僕を見た修一朗さんはすぐさま「何かあったのかい?」と尋ねてきた。
「何もないですよ。今朝は少し早く目が覚めただけで、それでいつもより早く部屋に来たんです」
「もちろんそれは構わないよ。むしろいつだって千香彦くんと一緒にいたいから、時間なんて気にせず来てほしいくらいだ。何なら毎日朝まで一緒に過ごしても……あぁ、そうじゃない。来る途中で何かあったんじゃないかと思ってね」
「いえ、本当に何も……」
「もしかして、最近噂の大河原伯爵の話かな」
修一朗さんはやっぱりすごい。それとも、すぐに思い浮かぶほど華族社会で有名な話なんだろうか。
「大河原伯爵は若くして当主になった人でね、実直で奥方一筋の男だった。Ωとの見合いを断ってまでβの奥方と結婚したのは有名な話なんだ。だから今回の件は誰もが驚いて、使用人たちの間でも噂話が広がっている。その話を耳にしたんじゃないかな?」
僕が耳にした原因にも思い当たったらしい。はしたなく立ち聞きしてしまったと露呈した気がして恥ずかしくなった。
「立ち聞きするつもりはなかったんです」
小さい声でそう弁明すると「わかってるよ」と修一朗さんが微笑んだ。
「それに使用人たちにも咎はない。こうした噂話は使用人たちの娯楽であり息抜きみたいなものだからね。よほど目に余る状態じゃない限り禁止するわけでもないから、千香彦くんの耳に入ったとしても仕方がないとわかっている」
「すみません」
「謝らないで。それに、こうした噂話は華族社会では日常茶飯事のことだから……」
そこまで口にした修一朗さんが小さく笑った。
「修一朗さん?」
「いや、そういうことにも慣れていないのかと思ったら、ますます守らなくてはと思ってね」
「守るって、僕は男ですし、βですよ」
「性別やΩかβかなんて関係ない。僕はきみだから守りたいんだ。同時に、汚れのない千香彦くんを僕の手で乱せることに興奮もしている。こういうとき、僕もただの男なんだと痛感させられるよ」
あからさまな表現に頬がカッと熱くなった。世の中の夫婦の誰もがこういう話をするのかわからないけれど、僕みたいにいつまでも恥ずかしがるほうがおかしいに違いない。わかっているのに、どうしても照れてしまって修一朗さんの顔を見ることができなかった。
そんな僕に、修一朗さんはいつも「なんて可愛いんだろうね」と微笑む。いまも「僕の伴侶はとても可愛い」と言い、僕の頬をするりと撫でた。そのまま腰を屈め、唇に触れるだけのキスをする。
「修一朗さん、」
「本当はこのまま千香彦くんを食べたいところだけど、それでは千香彦くんが腹ぺこになってしまうから我慢しよう。さぁ、朝食を食べようか」
「あの……はい」
駄目だ、やっぱり照れくさい。嬉しいのに恥ずかしくてどうしていいのかわからなくなる。そんな僕の気持ちなどすっかりお見通しの修一朗さんに促されながら、何とか朝食を食べることができた。
食事が終わると修一朗さんはコーヒーを、僕は紅茶をもらってから最近気になる本の話をしたり今日の予定を聞いたりする。「そろそろ仕事に行く時間かな」と気づいた僕が席を立とうとしたとき、修一朗さんが「一つ尋ねてもいいかな」と僕を見た。
「はい、何でしょうか」
「千香彦くんは、自分がβだということをまだ気にしているかい?」
思ってもみなかった問いかけに、咄嗟に言葉が出なかった。本当は気にしていないと答えるのが正解に違いない。でも、そう言えないくらい僕はβである自分を気にしている。
「気にする必要はない……と言いたいところだけど、そうもいかないか」
ため息をつくような声に思わず視線を落とした。せっかく修一朗さんがあれこれ気遣ってくれているのに、僕が気にしていたら不愉快に思うはず。わかってはいたけれど、βである不安はどうしても拭えなかった。
「あぁ、勘違いしないでほしい。気にしていることを咎めようというつもりはまったくない。αの僕には想像もつかない苦労や悩みがあるだろうことも承知している」
「いえ、そんな大層なことは別に……」
「僕にまで嘘をつく必要はないよ。僕の前では何を言ってくれても構わないし、胸の内をさらけ出してほしいと思っているくらいだ」
そうできたらどれほどいいだろう。でも、僕にはそうすることはできなかった。僕を好きだと言ってくれる修一朗さんを煩わせるような存在にはなりたくない。
「これから話すことは……そうだね、おとぎ話の一つだと思ってくれていい。ただ、千香彦くんがどう思うか少し興味があって聞いてほしいと思っている」
そっと視線を上げる。そこには微笑みながらも真剣な眼差しをした修一朗さんの顔があった。
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