燻る熱1

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燻る熱1

(最近、少し怠いような気がする)  それに何となく体が熱い。もしかして風邪を引いたのかと思ったけれど、それとも少し違う。以前は行為の翌日にお腹が痛くなることがあって、あのときも少し体が熱かった。でも怠さはなく、こうして熱っぽさが続くこともなかった。 (それに、最近はお腹が痛くなることもほとんどなくなったし……)  ふと、それだけ修一朗さんとの行為に慣れてきたのだろうかと思ってしまい、顔がポッと熱くなる。 (とにかく早く治さないと、修一朗さんに心配をかけてしまう)  手でパタパタと顔を扇ぎながら「何とかしないと」と考えた。  もし風邪だとしたら僕の不注意だ。それでも修一朗さんは自分のせいだと言わんばかりに心配してくれるだろう。そんな優しい修一朗さんを煩わせたくはない。「お手伝いさんにこっそり漢方を用意してもらうことはできないかな」と思いながら、修一朗さんの部屋に向かう途中の廊下で庭を眺めていたときだった。 (あれ……?)  いつもは人気がない庭に誰かがいる。クロッシェ帽子に柔らかそうな外套を羽織り、艶々した毛皮の襟巻きを着けた姿は名家のご令嬢そのものだ。  僕の視線に気づいたのか、女性がくるりとこちらを向いた。「まぁ!」というような表情を浮かべたかと思うと、すぐさま僕のほうに小走りで近づいて来る。  コンコン。  窓を叩かれ慌てて掃き出し窓を開けた。「どうかしましたか?」と尋ねる前に「あなたが千香彦さん?」と名前を呼ばれる。 「はい、そうですが」 「まぁ、やっぱり! 噂どおり綺麗な方ね」  噂どおりという言葉に、僕の状況を知っている人に違いないと思った。「もしかして珠守(たまもり)家のどなたかだろうか」と考えながら座ると、女性が「本当に綺麗なお顔だこと」と見つめてくる。 「あの、失礼ですがどなたでしょうか」  僕はまだ修一朗さんの兄姉に会ったことがない。さすがにご両親とは顔合わせをしたけれど、終始修一朗さんが話をしただけで五分も部屋にいなかった。そのため珠守(たまもり)家の方々の顔を覚えることもできないままでいる。 「まぁ、わたくしったら名乗りもせずにごめんなさい。わたくし、一条瑠璃子(いちじょうるりこ)と申します。薫子(かおるこ)様の許嫁ですわ」 「薫子様……」  聞き覚えのある名前にハッとした。薫子というのは修一朗さんの姉の名前だ。二歳年上のαで、宮様の従妹と婚約していると聞いた。ということは、この方がその従妹に違いない。 (宮様の従妹で一条家……まさか)  僕は慌てて姿勢を正して頭を下げた。「千香彦と申します」と口にしながら、失礼はなかっただろうかと心配になる。  一条家というのはいくつもの宮家に后を輿入れさせてきた大華族で、爵位から遠ざかっている家の僕が顔を合わせることなど決して許されない家柄だ。いまも皇室に連なる公爵家として華族社会で一目置かれ、今上陛下の后もたしか一条家の出身だったはず。 「そんなに畏まらないでちょうだい。わたくしたちは近い将来、義理のきょうだいになるのだから」 「いえ、身分が違いすぎます」 「あら、大丈夫よ。珠守(たまもり)の家では誰も気にしないわ。そういう古めかしいことや堅苦しさのないところが珠守(たまもり)家のよいところだもの」  そう言われても頭を上げることはできなかった。社交界に一度も参加したことがなく、華族の方々に直接会う機会すらなかった僕には何と返事をしてよいのかわからない。 (せめて作法くらい習っておけばよかった)  いや、あの父がβの僕に華族社会での作法を習わせるはずがない。そんな寳月(ほうづき)の家では無理だったとしても、珠守(たまもり)家に来てからなら習うこともできたはずなのに失敗した。 (修一朗さんの恥にならないように、せめて基本的な会話くらい尋ねておけばよかった)  家庭教師をつけてもらうまでしなくても、毎日の会話の中で学ぶことはできたはずだ。役に立ちたいと思いながら僕は何て間抜けだったんだろう。焦りながらもひたすら頭を下げていると「おや、義理の弟を虐めているんじゃないだろうね」という凜とした声が聞こえてきた。 「まぁ、薫子様ったら意地悪ね。わたくし、そんなことはしませんわ」 「わかっているよ。ちょっとした冗談だ」 「もうっ」 「薫子様」という名前と、女性の声ながらまるで男性のような言葉遣いに思わず頭を上げてしまった。  少し離れたところから歩いて来る姿は三つ揃えのスーツを着た男性にしか見えない。しかし声は間違いなく女性で髪も長く、姉がしばらく夢中になっていた耳隠しの髪型とも違う一つ結びをしている。「まるで巷で人気の歌劇団の人みたいだ」と思いながら見ていると、にこりと微笑まれて慌てて頭を下げた。 「瑠璃子嬢が困らせていたのだろう? 申し訳なかったね」  声をかけられ、慌てて顔を上げて「いいえ」と否定した。 「しかし美しい顔だな。瑠璃子嬢が困らせたくなるのもわかる気がするよ」 「あの、」 「それに修一朗が会わせたがらないのも納得できる。これだけの美貌なら心配で仕方がなくなるだろうからね」  やはりこの人は修一朗さんのお姉さんに違いない。そう思ったものの、まるで男装の麗人のような姿に不躾にもすっかり見惚れてしまった。隣に立つ一条家のご令嬢と並ぶと華やかでお似合いの美男美女にしか見えない。 「薫子様、弟の伴侶にそのようなことを言うものではありませんわ。それにわたくし、少し妬いてしまいましてよ?」 「妬く必要なんてないさ。わたしの伴侶はあなただけだし、あなた以外に心惹かれることはないからね。何よりわたしには瑠璃子嬢がこの世で一番美しく見える」 「まぁ、薫子様ったら」  ご令嬢の赤らんだ頬に男装の麗人がキスをした。普段の僕なら目を逸らすところなのに、あまりの美しさに一瞬我を忘れて見入ってしまう。すぐさまハッと我に返り、慌てて視線を逸らした。 「ふふ、聞いていたとおり純粋無垢なんだな」 「も、申し訳ありません」  見入ったことを咎められたのかと思って急いで謝る。すると男装の麗人が再び笑い、ご令嬢が「うふふ、本当にお可愛らしい方」と同意した。 「あぁ、やっぱり」 「……っ!?」  急に近くから声がして驚いた。慌てて視線を戻すと、目と鼻の先に修一朗さんによく似た美しい顔がある。 「あの、」 「あぁ、失礼」 「いえ……」  すぐに離れたものの、一度速くなった鼓動はなかなか落ち着いてくれない。どことなく修一朗さんを思わせる姿だからか心臓が忙しなく動く。 「まさかとは思っていたけど、どうやら本当のようだね。これも珠守(たまもり)の欲深い血の成せる技か……いや、修一朗の執念と強すぎる欲の賜物かな」 「……あの、それはどういう……?」  僕の問いかけに男装の麗人はただ美しく微笑むだけだ。 「そうだ、せっかくこうして言葉を交わすことができたのだし、ぜひ薫子と呼んでくれないかな。もちろん様付けなんてしなくていいから」 「え?」 「まぁ! それならわたくしのことも瑠璃子とお呼びになって?」 「あの、」 「さぁ」  修一朗さんによく似た笑顔が僕をじっと見ている。隣ではご令嬢が期待に満ちた表情を浮かべていた。 「でも、」 「さぁ、さぁ」 「……薫子さん」 「次はわたくしの番よ?」 「……瑠璃子さん」 「うふふ。こんな綺麗な方に名前を呼ばれるとドキドキするわ」 「たしかに。耳に心地いいとはこういうことを言うのだろうね」  何と返事をしたらいいのかわからず視線がうろうろしてしまう。そもそも、なぜ僕に名前を呼ばれたがったのだろうか。 「これで修一朗に自慢できる。まったく、いつまで経ってもきみに会わせてくれないんだからな。あの嫉妬深さには我が弟ながら呆れてしまうよ」  その言葉に慌てて「修一朗さんは悪くありません」と弁明した。 「その、僕がβだから……会わせづらかったんだと思います」  修一朗さんは「二人ともαだから会わせたくないんだ」と言っていたけれど、本当はそうじゃない。βの僕が何か言われるんじゃないかと心配してくれたのだ。結果的に杞憂だったようだけれど、気遣ってくれる修一朗さんの気持ちに胸が温かくなる。 (本当に修一朗さんは優しすぎるくらい優しい)  今朝も僕の体調を気遣ってくれた。怠さも熱のことも話していないのに、いつだって僕のことを気にかけてくれる。そんな修一朗さんを思うだけで胸がきゅっと切なくなり甘く痺れた。 「なるほど、もう香るほどになっているのか」 「え、ぁ……っ」  薫子さんの指が僕の顎に触れ、クイッと持ち上げた。そうして修一朗さんに似た美しい瞳で僕をじっと見つめる。 「そろそろ最終段階といったところかな。これならαもΩも確実に気づくだろうね。やれやれ、修一朗の執念、いや強欲さには脱帽するばかりだ」 「え?」 「さて、それを受け入れることができるかが最大の問題だが……ふむ、きみなら大丈夫そうだ」 「あの、」  薫子さんの指が離れた。それでも顔を伏せることができず、僕は修一朗さんを思わせる眼差しを見つめ続けた。 「先の戦争が終わり、この国は次の戦争へ進もうとしている。修一朗はそれで焦っているんだろう。かく言うわたしも瑠璃子嬢との結婚を急いでいるところなんだ」 「戦争……」  先の大陸との戦争では思いがけない大勝利を掴んだ。その結果この国は戦後の好景気に沸いている。その影響もあってか、これから大陸の北にある国か、もしくは南にある国々とも戦争をするんじゃないかと巷で囁かれていることは僕も聞いていた。 「あぁ、心配しなくていいよ。珠守(たまもり)の人間が直接戦争に関わることは、まずないからね。それでも仕事でしばらく留守にすることがあるかもしれない。そうなったときのために、修一朗はきみの身も心も完璧に自分だけのものにしておきたいのさ」 「それは、どういう……」 「心配なさらないで。少しは痛いでしょうけど、すぐに幸せな気持ちでいっぱいになるわ」 「瑠璃子さん……?」 「うなじを噛まれれば、Ωは噛んだαだけのものになるの。そうすれば、たとえどんなαが横やりを入れても駄目。そうやってαは自分だけのものにして守ってくれるのよ?」  意味がわからず首を傾げると、クスクスと笑う瑠璃子さんが「それにね」と言葉を続けた。 「運命の相手なら、αはΩの言うことを聞くしかなくなるの。すごいでしょう? だから運命の相手からは離れられなくなるのよ。千香彦さんと修一朗さんは、きっとそういうふうになるわ」 「あぁ、たしかにそういう香りがするね」と薫子さんがつけ加える。 「今度はお茶をご一緒しましょうね」  腕を絡めあった二人はにこりと微笑んで去って行った。僕は何を言われたのか理解できないまま、ただ見送ることしかできなかった。
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