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燻る熱2
自分の部屋に戻ったあと、僕は薫子さんと瑠璃子さんの言葉の意味をずっと考えていた。
(最終段階だとか香りがするだとか、どういうことだったんだろう)
途中からはαやΩの話をしていたようだけれど、どうして僕にそんな話を聞かせたのかわからない。修一朗さんがαだからと考えても、僕はただのβだから関係があるとは思えなかった。
(もしかして、僕が何かしらの病気だと気づいたとか……?)
薫子さんは修一朗さんと同じように優秀なαだ。帝都大学で学んでいたとも聞いた。もしかしたら僕の変調に気づいたのかもしれない。
(最近体が熱いのも、そのせいだとしたら……)
よくない病気だったらどうしよう。脚気や壊血病なら薬があると聞いたことがあるけれど、この症状も薬で治せるだろうか。
(これまで大きな病気はしたことはなかったんだけどな)
病弱な姉と違い、僕は真逆と言っていいくらい健康的に過ごしてきた。母からは「おまえばかり健康なのね」と嫌味を言われたこともある。
(そうだ、健康な体だけが取り柄なんだからきっと大丈夫)
自分にそう言い聞かせながら、午後の時間は読書をして過ごすことにした。修一朗さんにもらったハイネの詩集を選び、つらつらと目を通す。一ページ、二ページとめくったところで「はぁ」とため息が漏れた。
修一朗さんが帰宅するまでに落ち着かなくてはと思いながら本を開いたけれど、文字が滑って頭に入ってこない。結局モヤモヤとしたものが残ったまま、修一朗さんが帰宅する時間になってしまった。
「修一朗様がお帰りになりました」
お手伝いさんの言葉を聞いた僕は、すぐさま部屋に向かった。心配をかけたくはないけれど、不安な気持ちを沈めるには修一朗さんに会うのが一番いい。そう思いながら扉を叩くと「どうぞ」といういつもの声が聞こえて少しだけホッとする。
「お帰りなさい」
「ただいま」
部屋に入ると、帰って来たばかりのスーツ姿の修一朗さんが立っていた。普段着とは違う素敵な姿に思わずうっとりと見惚れてしまう。本当はすぐにでも駆け寄りたいのをグッと我慢し、代わりに修一朗さんに一番近いところにあるソファに腰を下ろした。
「もしかして姉に会ったかい?」
「え?」
「かすかにだが、姉の香りがする」
そう言った修一朗さんが腰を屈めてクンと鼻を鳴らした。そのまま右の頬にチュッとキスをする。僕は顔が赤くなるのを自覚しながら頬を指で撫で、それから「昼間に、少しだけ」と答えた。
「なるほど。だからニヤニヤ笑っていたのか」
「笑っていた……?」
「さっき廊下ですれ違ってね。そのとき笑いながら僕を見るからどうしたのかと訝しんでいたんだ。なるほど、千香彦くんに会ったのなら上機嫌なのも頷ける」
「上機嫌というほどのことは、ないと思いますけど」
昼間の様子を思い出しても、楽しそうには見えたけれどそこまでではなかったように思う。
「言っただろう? 兄も姉も千香彦くんを気に入っているんだ。以前言ったとおり興味津々で、いまでも会わせろとしつこく言ってくる。そんな中で直接会ったとなれば上機嫌にもなるよ」
嫌われるよりはいいけれど、やっぱり僕を気に入っているという理由がわからない。そう思っているのが表情に出たらしく、修一朗さんが「あの人たちは昔から好奇心旺盛でね」と話し始めた。
「僕がうっかり千香彦くんのことを話してしまったせいで、覗き見なんてするようになってしまった」
「僕の話を?」
「あぁ。前にも少し話したけど、僕は結婚にまったく興味がなかったんだ。それなのに熱心に寳月家に通うものだから、どういう理由かと二人に問い詰められてね。そのとき千香彦くんのことを、つい話してしまった。しかも馬鹿正直に、βだけどΩよりもずっと美しく、それでいて汚れを知らない異国の天使のような子だってね。それ以来、二人は千香彦くんに興味津々というわけだ」
修一朗さんの説明に顔が熱くなった。見た目は美しいと言われてきたけれど、僕はただのβの男だ。Ωより美しくはないし、天使のようだと言われたこともない。以前見た異国の本にあった天使像を思い出し居たたまれない気持ちになる。
「まぁ、いまは違う意味で興味を抱いているようだけど……あぁ、それで姉はあんなことを言ったのか」
「薫子さんが何か?」
そう尋ねると、なぜか修一朗さんの眉がわずかに寄った。
「まったく、手の早い人だ」
「修一朗さん?」
「大方、あの人にそう呼んでほしいとねだられたんだろう? そうして僕の前で口にすることで僕に嫉妬させ、それを想像して楽しんでいる。あの人は昔からそうだった。あぁ大丈夫、たしかに嫉妬はするけど千香彦くんは気にしなくていい。まったく、運命の相手である瑠璃子嬢のことだけを考えていればいいのに厄介な人だ」
「え? もしかして、あのお二人は運命なんですか?」
「そうだよ。それでも瑠璃子嬢が十八歳になるまで結婚は許さないと一条翁が言うから、三十一になってようやくの結婚というわけだ」
女性で三十一歳というのは晩婚もいいところだ。そんな年になるまで待っていたのは、やっぱり運命の相手だからなのだろう。そんな強固な絆があれば年齢も時間も気にならないに違いない。
「運命の相手なんて、βの僕には想像できないです」
羨ましくて、ついそんなことを口にしてしまった。慌てて「でも、とても素敵だと思います」とつけ加える。
「そうだね、とても素敵なことだと僕も思っている。そうだな、千香彦くんもいずれわかるようになるよ」
「僕はβですよ?」
「いまはまだね」
どういう意味だろう。首を傾げると、今度は唇にキスをされた。そのまま口内に舌が入り込み、あちこちを舐め回される。
(修一朗さんの香りがする)
キスをしているからか、いつもよりずっと強く感じた。清々しくて少し甘い、僕が大好きな香り。もっと嗅ぎたくて、おずおずと肩に手を載せる。本当は抱きつきたいけれど、さすがにそこまでする勇気はない。
(最中なら余計なことなんて考えずに抱きつけるのに……)
そんなことを考えてしまうなんて、僕は何てはしたないんだろうか。姉は僕に欲がないと思っていたようだけれど、蓋を開ければこんな状態だ。
いまだって思い切り抱きついてキスしたいと思っていた。僕のほうから舌を絡めたいとさえ思っている。修一朗さんが毎日求めてくれるように、僕も内心では毎日修一朗さんを求めていた。時間なんて関係ないくらい肌を触れ合わせていたいし、キスももっとしたい。僕の外にも中にも触れてほしくて体の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
(ほら、僕はとんでもなく貪欲でいやらしい)
僕がこんなふうに変わったなんて、修一朗さんが知ったら幻滅するだろうか。
(きっと呆れられて、天使のように美しいなんて思わなくなるに違いない)
だから、醜い欲は隠し通さなければ。そう思っているのに、わき上がる欲望を抑えられなくなりそうだった。
「んっ」
最後にチュッと吸いついた唇が離れていく。「もっと」と言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ。そんな僕の頬にキスをした修一朗さんが「そろそろかな」と囁いた。
「ようやく香りが広がるようになってきた。きっともう間もなくだ」
「修一朗さん?」
首筋でクンクンと嗅がれると背中がゾワゾワする。まだ湯を使っていないというのに、もっと嗅いでほしいと思ってしまう。
(やっぱり、僕はとんでもなくいやらしくなってしまった)
体臭を嗅いでほしいなんてどう考えても変だ。それなのに嗅いでほしくてたまらない。修一朗さんの吐息が肌に触れるだけで僕も同じように嗅ぎたくなる。僕の香りを嗅いでいる修一朗さんの香りがどうなるのか知りたくてうずうずした。
もっと香りを嗅ぎたい。僕が大好きな香りを、僕だけの香りをずっと嗅いでいたい。そして、あなたのためだけの香りでもっと僕に夢中になってほしい。
(……いま、僕は何を……)
何かとんでもないことを思ってしまった気がするけれど、熱で頭の芯にモヤがかかってしまってよくわからなくなった。
(昼間よりもずっと熱いな)
やっぱり風邪を引いてしまったのかもしれない。だとしたら修一朗さんに近づかないほうがいい。もし移してしまったら大変なことになる。
そう思っているのに、僕の体は修一朗さんから離れたくないと言うように動こうとしなかった。延びてくる手を拒むこともできず、この日は夕食前にたっぷりと修一朗さんの熱を受け入れることになった。
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