姉の身代わり・2

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姉の身代わり・2

「あの、お茶はもう十分ですから」  美しい花の絵が描かれたティーカップに、また琥珀色の紅茶が注がれた。それを注いでいるのは修一朗さんだ。 「じゃあ、こっちのお菓子はどうかな? 横濱で買い求めたんだけど、人気の洋菓子なんだそうだ」  そう言って微笑んだ修一朗さんが、ケーキ皿に見たことのないお菓子を載せている。 「エクレールと言うそうだよ。元は外国の商館や外国人居留地で食べられていたものらしいけど、いまは日本の洋菓子店でも作られているそうなんだ」 「初めて見ました」  僕の言葉に「買い求めてよかった」と微笑みながら「さぁ、食べてみて」と勧めてくれる。  お皿を受け取り、麩菓子のような形をした洋菓子をじっと見る。麩菓子よりずっと美しく淡い茶色をしていて、その上に艶々のチョコレエトがかかっていた。  寳月(ほうづき)の家で僕が洋菓子を与えられることはなかった。チョコレエトやキャラメルが好きだった姉には与えられても、僕の分まで買う余裕はない。小さい頃からそのことを理解していた僕は、食べられなくても当然だと我慢していた。  そんな僕に、姉はいつもこっそりと自分の分をわけてくれた。それが本当においしくて、姉と笑いながら食べたあの時間は僕にとってかけがえのない幸せな時間だった。 「もしかして、エクレールは嫌いだったかい?」 「え……? あ、いいえ、そんなことは……」  つい昔を思い出してぼんやりしてしまった。もう一度お皿の上のエクレールを見る。嫌いかと聞かれても、食べたことがないからわからない。  チラッと視線を上げると、修一朗さんが期待に満ちた眼差しで僕を見ていた。どうしてそんな目で見るのかわからないけれど、食べるまで見続けるつもりなんだろう。 (ずっと見られるのは、ちょっと困る)  それでなくても、こうして部屋に二人きりというだけで鼓動がうるさくなるのだ。そのうえ見られているなんて、僕の心臓がどうにかなってしまいそうで落ち着かない。 (せっかく勧めてくれるんだから、食べないと)  指先で摘もうとした生地は想像していたよりも柔らかくて、力を入れすぎないように加減する。ゆっくりと持ち上げて、行儀が悪くない程度に口を開いてから齧りついた。 「……っ」  ゆっくり噛んだはずの生地はすぐにぐにゃりと潰れて、中から甘いクリームが飛び出した。慌てて口で受け止めたけれど唇の端についてしまった気がする。何てみっともない食べ方をしてしまったのかと恥ずかしくなった。 「噛むと飛び出してくるのは厄介だけど、濃厚でおいしいクリームだろう?」  大急ぎで口の中のクリームを飲み込みながらコクコクと頷く。口周りを拭わなければとハンカチを取り出したところで、修一朗さんが近づいてくる気配を感じた。顔を上げるのと同時に唇の端に修一朗さんの指が触れて驚く。 「……っ」 「あぁ、勝手に触れてすまない。ほら、クリームがついていたんだ」  そう言った修一朗さんが、親指についているクリームをぺろっと舌で舐め取った。まさか舐めるなんて思わなかった僕は、どこを見ていいのかわからなくて視線をさまよわせた。 (こんなこと……まるで本当に許嫁になったみたいだ)  いまだけじゃない。そう勘違いしてしまいそうになるくらい修一朗さんは優しく接してくれる。うるさくなる胸を気にしながら、僕はただひたすらエクレールを口に運び続けた。 (まさか、毎日こんなふうに修一朗さんに会うことになるなんて思わなかった)  僕が珠守(たまもり)家に到着した日、部屋で待っていたのは修一朗さん本人だった。てっきり会うことはないと思っていた姿に動揺した僕は、挨拶もできずに立ち尽くしてしまった。そんな僕に修一朗さんはにこりと微笑み「はい」と言って一冊の本を差し出した。 「本郷のほうで文学者向けの資料として売られていた本だけど、お気に召してもらえるかな」  見ると海外の童話集だった。僕の我が儘に怒ることなく、わざわざ探してくれたに違いない。 「ありがとう、ございます」  僕の口から出たのは、情けなくもそれだけだった。 (やっぱり修一朗さんは優しい)  美しい絵と書体の表紙を見てから、もう一度修一朗さんを見た。そこには姉を見ていたときと同じ優しい笑顔があった。その笑顔に見惚れると同時に、姉の身代わりだからだろうかと思って胸がツキンと痛んだ。  初対面の日以降、修一朗さんは僕にあてがわれた部屋に毎日やって来る。そうして自ら紅茶をティーカップに注ぎ、珍しい洋菓子や老舗の和菓子を用意してくれた。 (どうして身代わりでしかない僕に、こんなによくしてくれるんだろう)  一人になると、そんなことばかりが脳裏をよぎった。修一朗さんにもらった童話集の表紙を指で撫でながら、気がつけば「どうしてなんだろう」と口にしてしまう。  僕は姉の身代わりとして押しつけられた存在だ。ただのβの男だから珠守(たまもり)家にとっては厄介者でしかない。こうしてよい部屋を与えられているだけでも贅沢なことだ。 (もしかして、僕と姉さんを重ねているんだろうか)  瓜二つではなくなったけれど、柔らかい茶色の髪や透けるような茶色の目は姉にそっくりだと僕自身も思っている。遠目で見れば何となく似た雰囲気に見えるだろう。  それでも僕はただのβだ。「見た目は美しいのに残念だ」と言われ続けてきた不要な存在でしかない。どこからどう見ても男だし、Ω特有の香りだってしない。そんな僕に姉を重ね合わせたりするだろうかと、やっぱり疑問に思ってしまう。  僕はこんなふうに毎日同じことを考えていた。そうして最終的に思うのは、いつも同じことだった。 (僕はこのまま珠守(たまもり)家にいてもいいんだろうか)  寳月(ほうづき)の家を出るとき、迷惑をかけないようにしようと心に決めていた。僕を引き受けるだけでも迷惑だろうから、できるだけ存在を消して密やかに生きていこうと思った。その中で時々修一朗さんの姿を見ることができればいい。それが姉の代わりに差し出される僕の人生だと思っていた。  それなのに修一朗さんは毎日僕に会いに来てくれる。話をして、たくさんの笑顔を向けてくれる。それはとても嬉しいことだったけれど、同じくらい胸が苦しくてつらかった。 (これからずっと姉さんの代わりとして見られるのかもしれない)  付属品どころか完全な代替品だ。それでもβでしかない僕には十分すぎる贅沢なのに、やっぱり不満に思ってしまう。これではいつか僕の気持ちを知られてしまうかもしれない。 「どうしたらいいんだろう」 「どうしたのかな?」 「え? ……あ、」  急に声がして驚いた。振り返ると、ドアのところに修一朗さんが立っている。 「何度かノックしたんだけどね。返事がないからどうしたのかと思って開けてしまったよ」 「あの、すみません。ボーッとしていて気がつきませんでした」 「もしかして体調がよくないのかい?」 「いえ、そんなことはないんですけど……」  毎日おいしい料理を食べて、お茶やお菓子までもらっている。ベッドというのは初めてだったけれど、あまりの寝心地のよさに毎晩夢も見ないくらいぐっすり眠っていた。そんな僕が体調を崩すなんてことはあり得ないし、あってはならない。 「よかった。それじゃあ誘っても大丈夫かな」 「誘う……?」 「向こうの庭の紅葉が、ちょうど見頃でね」と言って微笑む顔に胸がトクトクと高鳴る。「あぁ、やっぱり僕は修一朗さんが好きだ」と思いながら、顔に出してはいけないと唇を引き締めた。 「せっかくだから、一緒に見に行かないかと思ったんだ」 「僕とですか?」  僕の言葉に「そうだよ」と修一朗さんが微笑む。 「それに、屋敷に来てから千香彦くんは一度も外に出ていないだろう? それじゃあ気が滅入ってしまうよ」 「千香彦くん」と名前を呼ばれて心臓が小さく跳ねた。これまでにも名前を呼ばれることはあったけれど、こうして二人きりのときに呼ばれるとやっぱり緊張する。 「それとも、僕みたいなおじさんと散歩なんて嫌かな」 「おじさんだなんて、そんなこと思っていません」  慌てて否定したら「それはよかった」と微笑みかけられた。 (修一朗さんがおじさんだなんて、そんなふうに思う人はいないはず)  二十九歳の修一朗さんは僕より十歳年上で大人だとは思う。それでも決しておじさんと呼ばれる雰囲気ではなかったし、年齢よりもずっと若く見えた。 (もしかして、目尻が少し下がり気味だからかな)  修一朗さんはいわゆる垂れ目といった感じで、だから優しく見えるのかもしれない。それに黒髪は艶々しているし、黒い瞳もまるで夜空のようにキラキラと輝いていた。 (……って、僕は何を考えているんだ)  まるで恋人を賛辞するかのような言葉に、余計に心臓がうるさくなってきた。そのうえ二人きりで庭を散歩だなんて、まるで恋人みたいだなんて思ってしまう。 (恋人なんて、勘違いも甚だしい)  僕は姉の身代わりだ。そんな僕を修一朗さんが恋人だとか許嫁だとか思うはずがない。βの僕が密かに想いを寄せているなんて、きっと夢にも思っていないだろう。 (この気持ちは絶対に知られるわけにはいかない)  改めて決意した僕に、修一朗さんが「じゃあ、行こうか」と言って手を差し出した。 「え……?」 「あ……っと、さすがにこれはなかったかな。迷子になったら大変だと思って、ついね。千香彦くんはもう十九だというのに、これじゃ嫌なおじさんだと思われても仕方がないか」 「そんなことは、思わないですけど」  笑いながらも、修一朗さんの右手は僕に差し出されたままだ。視線をさまよわせながらも、チラチラと修一朗さんの手を見た。僕よりずっと大きな手で、一度も握ったことはない。  修一朗さんの顔を見ると、にこりと微笑みかけられた。もしかしなくても、僕が手を握るまでこうしているつもりなのかもしれない。 (それじゃあ、修一朗さんに迷惑だろうから)  そんな言い訳を頭に浮かべながら、そっと手を伸ばした。触れた手はとても温かくて、きゅっと握られるだけで体がふわふわしてしまいそうになる。 「紅葉も綺麗だけど、金木犀もちょうど見頃なんだ。いい香りがして、きっと晴れやかな気持ちになるんじゃないかな。そうだ、ついでに池の鯉たちに餌もあげようか」  廊下を歩きながら修一朗さんが楽しそうに話している。隣を歩く僕は手が震えないようにすることに精一杯で、話を聞く余裕なんてまったくなかった。そんなぎこちない僕だったのに、終始修一朗さんは話しかけたり微笑みかけたりしてくれた。
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