1052人が本棚に入れています
本棚に追加
姉の許嫁だった人・2
「昼食を食べなかったそうだけど、具合がよくないのかな?」
お昼過ぎ、部屋に修一朗さんがやって来た。いつもなら緊張しつつも嬉しくて仕方がないのに、いまは顔を見るだけで胸が苦しくなってしまう。
「いえ、大丈夫です」
「あまり顔色がよくないな。具合が悪いのなら医者を呼ぼう」
やっぱり修一朗さんは優しい。βの僕なんかに優しくする必要はないのに、こうして体調まで気遣ってくれる。
(αなのに誰にでも優しい。こういう人だから僕は好きになったんだ)
大好きな姉が好いていた人で、いつの間にか僕自身が好きになってしまった人。
(でも、この想いは抱いていてはいけないものだ)
修一朗さんは、いずれ家柄のよいΩと結婚する身だ。それなのに僕のようなβが想いを寄せてもしょうがない。こうしてよくしてもらっているだけありがたいと思わなくては。
わかっているのに、どうしても胸がツキンと痛んだ。膝の上で両手を握り締め「気持ちを悟られないようにしなければ」と必死に表情を繕う。それでも胸の痛みはなかなか消えてくれない。いま修一朗さんを見てしまったら余計なことを口走りそうで、そっと顔を伏せた。
「何か悩んでいるなら相談してくれないか?」
椅子に座ったまま俯く僕の視界に修一朗さんの顔が映った。床に膝をついて、僕の顔を覗き込むように見ている。
「それとも僕では相談相手にならないかな」
「そんなことは……」
そんなことは決してない。修一朗さんは優しくて頼りがいがある。珠守家の次男としてもαとしても、もちろん男としても尊敬できる人だ。でも、だからこそ、僕が抱いている想いを告げるわけにはいかなかった。
「もしかして、何か余計なことを耳にしてしまったかな」
僕の様子から何かを察したのだろう。ひと言も話していないのに、僕の様子だけでわかるなんて修一朗さんはやっぱりすごい。
本当なら、ここで「余計なことじゃないです。婚約おめでとうございます」と告げるのが正しいのかもしれない。めでたいことだし、お祝いの一つでも口にするのが礼儀だ。
(いや、姉さんのことを考えたら僕が言うのも変か)
それに僕はただの居候のようなものだ。自分がどういう立場でここにいるのかよくわからないのに、お祝いを口にしてもいいものか判断がつかない。それなら下手に何か言うより黙っていたほうがいい。
寳月では、いつもそうしてきた。βの僕が口を挟むことは許されなかったから、ただじっと父の言葉を聞くことしかできなかった。
(それに、もし姉さんと修一朗さんが“運命の相手”だったとしたら、弟の僕から祝いの言葉を聞くのは不快かもしれないし)
姉が亡くなって四十九日すら終わっていない。修一朗さんはまだ姉を思っているかもしれないのだから、姉に似ている僕に祝福されてもよくは思わないはずだ。
(……そうか。ということは、僕がここにいること自体が迷惑なのかもしれないのか)
姉が亡くなったあと、母は姉を思い出すからと僕を遠ざけた。瓜二つじゃなくても思い出させる程度には似ているということだ。
ということは、修一朗さんがそう思っていてもおかしくない。引き受けた理由はわからないけれど、そんな僕がそばにいては修一朗さんも結婚しづらいんじゃないだろうか。
(だからといって、勝手に珠守の屋敷を出るわけにもいかないしな)
何かしらの約束事があって僕を引き受けたのだろうから、勝手にいなくなっては珠守家の顔に泥を塗ることになる。
「もしかして、都留原家の話を聞いたんじゃないかい?」
都留原という言葉に胸がツキンとした。一瞬何と返事をしようか悩んだけれど、ここで嘘をついても意味がない。僕はただコクリと小さく頷いた。
「そうか。まったく、あのご隠居にも困ったものでね」
少し視線を上げると、床に膝をついたままの修一朗さんが渋い顔をしている。こんな表情を見るのは初めてで、立ち聞きしてしまった僕のせいだと思った。
「あの、すみません」
「どうして謝るんだい?」
「その、勝手に立ち聞きしてしまって」
「立ち聞きしたんじゃなく、聞こえてしまったんだろう? きみは噂話に耳をそばだてるような子じゃないのはわかってる」
たしかにわざわざ話を聞いたりはしないけれど、聞いてしまったのだから似たようなものだ。そんな僕の顔を見ながら修一朗さんが口を開く。
「千香彦くん、よく聞いてほしい。本当はもっと早くに言うべきだったのかもしれないけど、ここに来たということは承知してくれているものだと勝手に思い込んでしまっていた」
修一朗さんが、やけに真剣な顔で僕を見ている。何かよくないことを言われるのではないかと心臓が嫌な鼓動を刻み始める。
「僕はきみ以外の人を迎える気はまったくない。だから安心してほしい」
「…………え?」
修一朗さんの言葉が理解できなかった。僕以外を……とは、どういうことだろうか。
「もしかして、お父上から何も聞いていないのかな」
「何を、でしょうか」
そう答えると、修一朗さんが「はぁ」とため息をついた。その様子に、もしかして重要な約束事があったのではと思った。そのことを父に聞いていない僕は、何かよくないことをしてしまったに違いない。
こんなことなら家を出る朝きちんと父に挨拶をすべきだった。姉の死や修一朗さんのこと、βである自分のことで思い悩み、父の顔を見ることができずそのまま出てきてしまった。
父からもとくに呼ばれることはなかったから、ただ珠守家に行けばいいのだと思い込んでいた。しかし、そうじゃなかったということだ。
「前々から、お父上のきみに対する態度はいかがなものかと思っていたんだ。まさか何も伝えないまま寄越すとは思わなかったけどね」
やっぱり何か大事なことがあったに違いない。膝に載せていた両手を重ねてぎゅっと握りしめる。そうして何を言われても受け止めようと覚悟し、目を閉じた。
「千香彦くん、きみは僕の許嫁としてここにいる。僕としてはすぐにでも結婚したいところなんだけど、兄が“余裕のない男は嫌われるぞ”なんて脅すものだから二の足を踏んでしまっていた。それが千香彦くんを不安がらせていたなんて、まったく気づかなかった。これでは伴侶失格だな」
(……修一朗さんは、何を話しているんだろうか)
ゆっくりと目を開けた僕は、ぼんやりしたまま修一朗さんを見た。そこにはいつもどおりの優しい笑みを浮かべた修一朗さんの顔があった。
「……あの、いま、何て」
「千香彦くんは僕の大切な許嫁だ。もちろん僕の許嫁はきみだけだし、ほかに迎えるつもりも予定もない」
「で……も、僕はただのβで、αの許嫁、なんて、」
βである前に僕は男だから、同じ男に迎え入れられることはない。それなのにαの修一朗さんの許嫁なんてあり得ないことだ。
「信じられないって顔だね」
「だって……僕はβです。それに男です。修一朗さんの許嫁には、なれません」
「そんなことはない。現に僕は千香彦くんと結婚したいと思っている。ずっとそばにいてほしいし、末永く一緒にいたいと願っている」
修一朗さんの大きな手が、握り締めたままの僕の両手に触れた。まるで包み込むように重なる手の温もりに困惑する。
「僕はね、もう何年も前から千香彦くんのことを許嫁の可愛い弟だと思えなくなっていたんだ。このことは明香莉ちゃんにも話していた。というより、話す前に明香莉ちゃんのほうが気づいたんだけどね」
「え……?」
「きみを前にするとすっかりただの男になる僕を見て、何度明香莉ちゃんに笑われたことだろう。『修一朗さんのおもしろい姿が見られるから、訪ねてくれるのが待ち遠しいわ』なんて意地悪なことも言われたよ」
そんな……。それじゃあ、姉が嬉しそうな顔で待っていたのは修一朗さんを好いていたからじゃなかったのだろうか。
(そんなはずはない)
いくら思い出しても、僕には好いた相手を待っているような姉の顔しか思い浮かばなかった。それが違っていたなんて信じられない。
「出会った頃は、屈託のない眩しい笑顔を向けてくれる千香彦くんを可愛い弟のように思っていたんだ。そのうち段々と笑わなくなっていくのが心配になった。気がつけば能面のような笑みしか浮かべなくなった姿が痛々しくて……どうしても放っておけなかった」
修一朗さんの言葉に驚いた。僕はそんな顔で笑っていたんだろうか。そんなことを指摘されたことは一度もない。学校でも家でもそつなく笑えていたはずで、姉にだって何か言われたことはなかった。
「千香彦くん、僕はきみに恋をしているんだ」
両手を包んでいた大きな右手が、今度は僕の頬に触れた。その温もりもいま聞いた言葉も信じられず、ただ修一朗さんを見ることしかできない。
「……でも、僕はβで、男です」
「もちろん検査結果は知っている。それでも僕は諦めきれなかった。たまたま恋をした相手がβという結果になったというだけで、僕はそんなことくらいで諦めるような男じゃないんだ」
「そんなことくらいって、大変なことじゃないですか。それにαはΩの香りに惹かれるんだって、そのくらい僕も知っています。でも、僕にはΩの香りはありません。それなのに僕なんかを……」
修一朗さんのような優秀なαが、ただのβでしかない僕を選ぶはずがない。このことは、αやΩといった第二次性の研究が進んだいまの世の中じゃ誰もが知っている常識だ。
それに、僕にはαの香りがわからない。Ωを誘うと言われているαの香りがわからないβの僕が、αの隣にいていいはずがなかった。
「僕には香りがありません。修一朗さんの、αの香りもわかりません」
「香りは互いを知る方法の一つでしかない。すべてが香りで決まるわけじゃない」
「でも……でも、僕には修……αを惹きつける香りがありません。何も持っていない僕をそばに置きたいなんて、αである修一朗さんがそんなことを思うはずがありません」
そうだ、惹きつける香りすら持っていない僕がαを、修一朗さんを惹きつけられるはずがない。そのうち飽きて捨てられるに決まっている。そんなことになるくらいなら、最初から修一朗さんのそばにいないほうがいいし何も期待しないほうがいい。
「千香彦くん、お願いだから泣かないで」
修一朗さんの親指が目尻を撫でるだけで胸がひどく痛んだ。想っていた相手に想われているとわかっても胸は苦しくなる一方で、自然と涙があふれてしまう。修一朗さんの言葉を信じたいと思っても、ただのβでしかない僕にはどうしても信じることができない。
αとΩのことがわからないβの僕でも、αとβの関係性ははっきり理解している。何がどう転んでも、αとβの男が結ばれるなんてことはあり得ないのだ。
「ある意味、お父上が何も言わずに送り出してくれてよかったのかもしれないね。話を聞いていたら屋敷にすら来てもらえなかったかもしれない」
修一朗さんの指が何度も目尻を撫でた。僕を落ち着かせようと、もう片方の手で肩を優しく撫でてもくれている。それでも僕の涙は止まらず、αとβに未来はないのだと悲しくて苦しくなった。
「まいったな」
修一朗さんの言葉にドキッとした。拒んでいるのは僕のほうなのに、嫌われたんじゃないかと思うとますます胸が痛くなる。
こんな矛盾した気持ちを抱くなんて、僕はなんて浅ましいんだろう。ただのβの僕がαの修一朗さんに嫌われたくないなんて厚かましいにも程がある。それなのに受け入れることはもっとできなくてどうしていいのかわからなかった。
そんな僕の頬を、修一朗さんの手がひと撫でした。
「よし、こうしよう。今夜、夕食を食べ終えたら僕の部屋に来てほしい。そこで今後のことを話し合おう」
僕に話し合うことは何もない。βの僕が修一朗さんのそばに居続けるのは間違っている。そう思っているのに、しぶとく心に居座る修一朗さんへの未練が僕を頷かせてしまっていた。
最初のコメントを投稿しよう!