αの贈り物

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αの贈り物

 その日の夕食は、戸惑いと混乱、それに不安が続いていたからかほとんどを残してしまった。修一朗さんが用意させたというリンゴを甘く煮たものを少し食べ、お茶を飲んでから箸を置く。 (本当は、部屋に行くのが怖い)  修一朗さんは「今後のことを話し合おう」と言っていた。僕と結婚したいと言っていたけれど、そうできないのは修一朗さんだってわかっているはず。それにいま婚約の話を進めているのはあの都留原(つるはら)家だ。それを蹴ることは珠守(たまもり)家にとっても損に違いない。 (まさか、僕に情人になってほしいと考えて……なんてことは、さすがにないか)  あの優しい修一朗さんがそんなことを言うとは思えないけれど、それが一番納得できる。大富豪の家では妾の一人や二人はよくある話だと聞くし、華族の間でも昔からよくあることだ。とくに男児が生まれない華族が外に子を作り、その子を本妻が育てるのは古い時代から行われてきた。 (僕の場合は、完全に家の都合かな)  没落華族が妾になる話も昔からよくある。その場合は妾になる側が大きな見返りを求めていて、今回も家のために父が僕を差し出した。  でも、僕はβの男だから情人が務まるとは思えない。修一朗さんが子を望んでいないなら男のほうが都合がよいのだろうけれど、修一朗さんに男色の趣味があるとも思えなかった。  それなのに僕を引き受け、さらに結婚という言葉まで口にしたのはなぜだろう。意図がわからず、ますます混乱してくる。 (どんな理由があるにせよ、これが僕の人生なんだ)  両親に顧みられず必要とされないβの僕。姉だけが僕を受け入れてくれて、姉と一緒に過ごした時間だけが僕の幸せだった。その姉ももういない。  戸惑うことが多かったけれど、修一朗さんと過ごしたこの時間も僕にとってかけがえのない幸せになった。密かに想い続けてきた人との思い出ができたと思えば、これ以上欲を掻いてはいけない。 (そうだ、今夜引導を渡されたとしても僕は大丈夫)  寳月(ほうづき)から持ってきた服に着替えて部屋を出た。数少ない洋装の中から比較的綺麗なシャツとズボンを選んだけれど、やっぱり珠守(たまもり)家にふさわしい代物には見えない。それでもこれから聞かされるであろうことを想像すると、修一朗さんにもらった服には袖を通すことができなかった。  教えられた部屋までの道のりをゆっくりと歩き、最後の角を曲がる。目の前にあるドアの向こう側に行くのは怖かったけれど、修一朗さんを待たせるのはよくない。息をすぅっと吸った僕は、意を決してドアを叩いた。 「どうぞ」  いつもと変わらない返事に胸がぎゅうっと締めつけられた。苦しい気持ちを無理やり押し込めながらドアを開ける。 「さぁ、入って」 「……え?」  開いたドアの先を見て驚いた。今朝訪ねたときにはなかった寝椅子が目の前にドンと置かれている。そこにあったはずの小さな丸テーブルと椅子は壁際に追いやられ、ほかの家具も位置が変わっていた。 (どうしてこんなにソファや椅子ばかりが……?)  しかも、並べられた椅子たちの上にはたくさんの物が置かれていた。洋服や着物、靴下や足袋、帯も混じっている。それ以外にも鞄や靴、ステッキや本、ペンやインク瓶まであった。 「これは……」 「とりあえず思いつくままに僕の私物を集めてみたんだ」  置かれている物が修一朗さんの物だということはわかった。でも、どうして積み上げるように置かれているのかがわからない。洋服や着物は皺が寄るんじゃないかと思わず心配になった。 「これだけあれば僕の香りがわかるんじゃないかと思ったんだけど、どうかな?」 「え……?」 「さぁ、まずは身に着ける物からどうぞ」  そう言った修一朗さんが、左手を僕の背中に回して寝椅子のほうへ促した。困惑しながらも、こんもりと積み上げられた洋服や着物の山の前に立つ。 「遠慮しないで嗅いでみて。もちろん手に取ってもらってかまわないからね」 「……」  そんなことを言われても困ってしまう。それに服の匂いを嗅ぐなんて、持ち主の目の前でできるはずがなかった。 「これなんかどうかな。昨日着ていた服だから、きっと僕の香りがまだ残っているはずだよ。本当は今朝脱いだパジャマがよかったんだろうけど、洗濯してしまったんだ」 「念のためにと思って用意はしたんだけど」と言って、修一朗さんが濃紺色のパジャマを指さした。 「あの、これは一体……」 「これだけ僕が身につけたり使ったりしているものがあれば、僕の香りがするんじゃないかと思ってね」 「え……?」  僕を見る修一朗さんがにこりと微笑んだ。 「香りを感じるのは何もαやΩだけじゃない。着ているものや身につけているものからは、その人の香りがするものだ。それは香水だったりお香だったり、もしかしたら食べた料理の匂いや出かけた先の草花の香りかもしれない。そういう香りでも、それがその人の香りだと僕は思っている」 「あの、」  不意に肩を掴まれて体が震えた。掴んでいる大きな手の熱に鼓動が速くなり、緊張で手足がぎゅっと固まる。身動きできなくなった僕は、ただ修一朗さんを見上げることしかできない。そんな僕を修一朗さんがそっと包み込んだ。 「何か香りを感じるかい?」  耳元で囁かれた優しい声に、僕の体は驚くくらい大きく震えてしまった。こんな状況で香りを嗅ぐ余裕なんてあるはずがない。それでも何か答えなければ、ずっとこのままかもしれないと焦った。 (こんな状況、僕の心臓がもたない)  僕は、おそるおそる香りを嗅いでみた。ふわっとした何か爽やかな香りと、ほんの少し煙るような香りがする。 「……爽やかな香りと、何かを燃やしたような香りが、します」 「前者は僕が愛用している香水だろうね。後者は、夕食のあとに兄が葉巻をふかしていたからその香りかな」 「僕は葉巻は得意じゃないんだ」と言われて、修一朗さんが葉巻を嗜まないことと香水をつけることを初めて知った。 (そういえば、修一朗さんにもらうものから少しだけ香りがしていたような)  あれは香水の香りだったんだろうか。 「いま感じたその香りは、千香彦くんが感じた僕の香りだよ」  修一朗さんの言葉にハッとした。 (そうか、僕が香りのことを話したから……)  昼間、僕が香りについていろいろ言ったことを気に留めてくれたのだ。だからこんなにたくさんのものを集めて、そうして僕に嗅がせようとしたに違いない。 「でも、これは香水と葉巻の香りで……αの香りじゃ、ないです」  これだけ体が密着しているいまも二つの香り以外は感じない。でも、αとΩが互いに感じる香りはこういうものじゃないはずだ。 「香りはαとΩが放つものだけじゃない。現に千香彦くんは香水と葉巻の香りに気がついた」 「でも、」 「αやΩは関係ない。きみが感じた香りが僕の香りだよ」  そう言った修一朗さんの両腕に少しだけ力が入った。そうして今度は修一朗さんがクンと鼻を鳴らす。 「千香彦くんからは柔らかなシャボンの香りがする。それだけじゃない。ほんの少し甘く感じるのは千香彦くん自身の香りかな」 「……っ」  甘いなんて、そんなΩのような香りがするはずがない。もし感じたのだとすれば、ただの勘違いだ。それにまだ湯を使っていないから、今日一日分の汗や何かの匂いもしているはず。  そう思ったら途端に恥ずかしくなった。清潔じゃない体を嗅がれるなんて、よく考えたらとんでもない状況だ。しかも嗅いでいるのは修一朗さんで、いまもクンクンと嗅いでいるような気配がする。 (好きな人に嗅がれるなんて、恥ずかしい)  そう思っているのに温かい腕から逃れられない。早く離れなければと思っているのに、声を出すことも身をよじることもできなかった。 (……そうじゃない。僕は修一朗さんから離れたくないんだ)  こんなふうに抱きしめられることは二度とないだろう。この感触をもっと感じていたくて、逃げようなんて気持ちにはならなかった。 「僕のことが怖いかい?」 「え……?」 「許可を得ることなく、こうして抱きしめている僕を軽蔑するかい?」 「そんなことは、ないです」  すっかり早くなった鼓動を必死に誤魔化しながら、そう答えた。  もし僕が女性だったら「なんて破廉恥な」と思ったかもしれない。でも、僕は男でβだ。最近は外国かぶれだと言いながらも男同士で抱擁することがあるし、いちいち許可を得るのもおかしな話だろう。 「もしかして、ただの抱擁だと思っているのかな」 「え?」 「それでは困るんだけど。……まぁ、少しくらいは大丈夫か。何より僕の本気を知ってほしいしね」 「あの、」  修一朗さんが小さく笑った気がした。どうしたのだろうと思っていると耳に吐息が当たる。それに首筋が少しぞわりとしたとき、チュッという小さな音と柔らかい何かが耳に触れた。 (え……?)  驚いていると、耳の縁を何かに摘まれる感触がした。そのままチュッチュッと何かを吸うような音がして、それから濡れた感触がする。 「……!」  まさか。この感触は、もしかして修一朗さんの……。 「……っ」  修一朗さんの口が自分の耳をどうにかしているに違いないと思ったら、途端に顔がカァッと熱くなった。居たたまれなくて逃げ出したいのに、僕を抱きしめる腕の力がますます強くなって身をよじることもできない。  どうしていいのかわからず、思わず「修一朗さん」と名前を呼んでいた。 「しぃっ、黙って」 「……っ」  とんでもなく近いところで修一朗さんの囁く声がする。そうして今度は耳たぶに温かいものが触れた。  小さな痛みを感じて噛まれたのだとわかった。そんなことをされたのは生まれて初めてで体がカッと熱くなる。続けてちゅうっと吸われるような感触に鳥肌が立った。 「……っ!」  とんでもない声が漏れそうになって、慌てて唇を噛み締めた。早く離れなければと思っているのに、強張ったように手も足も動かない。その間も修一朗さんの口は耳たぶを何度も噛み、濡れた感触が首筋に移ったかと思うとそこもチュッと吸われた。 「ん……っ」  今度は声を抑えることができなかった。チュッと吸われてから湿ったものを感じたけれど、もしかして舐められたのだろうか。 (そ、んな)  首を舐めるなんて、あり得ない。しかも湯を使う前の汚れた体だ。そんな僕の肌を修一朗さんが舐めていいはずがない。  止めなければと抱きしめている二の腕を掴んだ。それでも腕が離れることはなく、それならと隙間に手を入れて胸を押し返そうとする。しかし修一朗さんの体は相変わらず僕に密着したままだ。段々と全力疾走した後のように鼓動が速くなり、じわじわと汗まで滲んでくる。 「んっ……ふ、ん……っ」  声を漏らさないようにすることすらできなくなった。首筋から全身に広がっていく痺れのようなもののせいで力が抜けそうになる。気がつけば修一朗さんにすがるように寄りかかり、吐息のような情けない声を漏らし続けていた。 「んっ」 「……これはまずいな」  首筋を一際強く吸われ、鼻から抜けるような声を出してしまった。こんな声を修一朗さんに聞かれてしまうなんて恥ずかしくてたまらない。いますぐ部屋を出て行きたいのに、すっかり腰が抜けてしまったのか足を動かすことすらできなかった。 「これじゃあ、僕のほうがもちそうにない」  修一朗さんの胸に額を当てながら息を乱す僕のうなじを、温かな手がそっと撫でる。その感触だけでも体が震えて「んぅ」とますます情けない声が漏れてしまった。 「大丈夫かい?」 「……っ」  大丈夫なはずがない。何もかもが初めて感じることばかりで、得体の知れない感覚にいまも背中がぞわぞわしている。それでも何とか頷いてから、促されるままにソファに腰を下ろした。 (……修一朗さんの……香りがする……)  ソファに置かれていた衣服がすぐ隣に積み上げられている。まるで衣服に囲まれているような状態だからか、ついさっきまで感じていた修一朗さんの香りに包まれているような気がして顔が熱くなった。 (これはαの香りじゃない。わかっているけど……)  もしかして、Ωもこんなふうに感じるんだろうか。ふと、そんなことを思ってしまった自分に驚いた。
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