密やかに育つ欲望

1/1
前へ
/19ページ
次へ

密やかに育つ欲望

 翌日、僕は修一朗さんともう一度今後について話すことになった。 「つまり姉は、その……僕たちのことを応援してくれていた、ということですか?」 「千香彦くんのことは応援していただろうけど、僕のことはどうかな。右往左往する僕を見て楽しんでいただけかもしれないね」  修一朗さんが困ったような笑みを浮かべている。その表情だけで鼓動が跳ねてしまい、慌てて視線を落とした。  昨日の夜、部屋を訪ねた僕に香りの話をした修一朗さんは、改めて「僕と結婚してほしい」と告げた。耳や首に口づけられた驚きと戸惑いで一杯いっぱいになっていた僕は、よく考えないままにコクンと頷いてしまった。  そうして今朝、目が覚めたらベッドの傍らに大きな薔薇の花束が置かれていた。驚いて瞬きをしていると、起こしに来てくれたお手伝いさんが「修一朗様からの贈り物でございます」と教えてくれた。 (昨日の今日なのに、こんな大きな花束なんて……それに、修一朗さんってこういうことをする人だったんだ)  姉の見舞いには、よくお菓子を持ってきてくれた。僕もいろいろもらったけれど、どれも実用的なものばかりだったような気がする。  ふと、姉と観に行った映画のことを思い出した。姉がどうしても観たいと言って、病院に行く振りをして一緒に観に行った作品は当時話題になっていた外国の映画だった。情熱的な男性が登場する話で、大きな花束を手にしていたのをよく覚えている。  映画を見終わったあと、姉は「好きな人に大きな花束をもらえたら素敵だと思わない?」と僕に問いかけた。問われた僕は、すぐに修一朗さんが花束を持つ姿を想像した。浮かんだ姿がとても素敵で「そうだね」と笑いながら答えた気がする。 (もしかして、姉さんはあのときのことまで修一朗さんに話したんだろうか)  そう思うと途端に恥ずかしくなった。 「明香莉(あかり)ちゃんが千香彦くんのことを事細かに話してくれるから、まるで僕も一緒に過ごしているような気がしていたよ」 「何を話していたのか考えると、ちょっと恥ずかしいです」 「恥ずかしがることは何もないよ。全部、可愛い千香彦くんの様子ばかりだ」  言われて、また顔が熱くなってきた。大きな花瓶に生けられた薔薇の花が視界に入るたびに、僕の熱を上げているような気までしてくる。 (それにしても、本当に姉さんと修一朗さんが想い合っていたわけじゃなかったなんて)  僕が相思相愛だと思っていた姉と修一朗さんは、修一朗さんいわく「同志」のような間柄だったそうだ。  修一朗さんと婚約した十二歳のとき、姉はすでに自分の命がそう長くないことを悟っていたのだろう。医者は「養生すれば大丈夫」と話していたけれど、きっと何か感じることがあったに違いない。  婚約後、初めて修一朗さんに会った姉は「許嫁にはなるけれど、結婚はしません」とはっきり口にしたそうだ。それでも婚約の話を受け入れたのは、そうすれば両親の気持ちが和らぐのではないかと思ってのことだった。  一方、修一朗さんのほうも結婚するつもりはなかったらしい。それなのに姉と婚約したのは、これでうるさい婚約話を聞かなくて済むと考えたからだと苦笑いを浮かべていた。当時十五歳になったばかりの修一朗さんには、それはもう驚くくらいの見合い話が来ていたそうだから、思わずそう考えてしまったのもわかる気がする。 (それでも、とてもお似合いの二人だった)  にこやかに笑っている二人の姿を見るたびに想い合っているものだとばかり思っていた。そこに恋愛感情がなかったなんて、聞かされたいまでも信じられない。それに、姉がずっと僕のことを心配していたことも知らなかった。 「明香莉(あかり)ちゃんは、いつも千香彦くんのことを心配していた。自分が死んだ後どうなってしまうのかと不安そうに話していたよ」 「そうだったんですか」 「千香彦くんが僕をどう思っているのかも、随分前から気づいていたようだしね」 「……そう、でしたか」  随分ということは、一カ月や二カ月という時間じゃないだろう。そんなにも前から気づかれていたことにも驚いた。 「そして僕の気持ちにも気づいていた。明香莉(あかり)ちゃんは、僕なら千香彦くんを守れると判断したそうだ。じつは亡くなる五日前に会ったとき、自分が死んだら初七日を待つことなく千香彦くんを寳月(ほうづき)の家から連れ出してほしいと頼まれたんだ」 「そんなことを……」 「さすがに初七日は待ったほうがいいと思っていたんだけどね。しかし、お父上のほうが上手(うわて)だったよ。まさか明香莉(あかり)ちゃんが亡くなったその日のうちに千香彦くんの話をするとは思わなかった」  葬式の準備すら進んでいないうちに珠守(たまもり)家を訪れた父は、挨拶もそこそこに僕の話をしたそうだ。「僕としては願ったり叶ったりだったけどね」と修一朗さんは言ってくれたけれど、父の行動を快く思わなかったに違いない。  何より姉の死を悼むのが先じゃないかと目の前がカッとなった。病弱だった姉は、いつも父の意見を受け入れてΩとして精一杯努力していた。そんな姉が亡くなったその日になんて、あまりにひどすぎる。  話を聞いた僕は静かに涙した。父が情けなくて姉が不憫で、そんな二人に何もできなかった自分が悔しくてたまらなかった。そんな僕を修一朗さんは何も言わず抱きしめてくれた。 「僕は笑顔を見せなくなった千香彦くんのことがずっと気になっていた。また幼い頃のような屈託ない笑顔を見せてほしいと思っていた。できることなら、僕のそばで昔のように笑ってほしいと思っている」  修一朗さんの声は真剣そのものだ。それに何と答えるべきか、僕はまだ少し迷っている。 「修一朗さん」 「さすがにそう思うのは傲慢かな」  僕はゆっくりと首を横に振った。それは傲慢なんかじゃなく修一朗さんの優しさだ。むしろ、そうされたいと望んでしまう僕のほうこそ浅ましくて傲慢だろう。  修一朗さんの腕から離れた僕は、開きかけた口を一旦閉じた。受け入れたい気持ちはあるけれど、やっぱり最初に浮かぶのは不安だった。 「でも、僕はβの男です。……本当に、結婚なんてできるんでしょうか」 「もちろん。そう願っているし、僕にはそうすることができる」 「え……?」 「我が家はね、お役所周りに少しばかり顔が利くんだ。たとえばΩの表記漏れや記載間違いがあったとしても、婚姻届は受理されるよ」 「それって、」 「まぁ、お偉方に少しばかりはずまないといけないだろうけど、それはいつものことだ。国もお役所も大陸との戦争に勝ったことで沸き立ったままでいる。多少のことには目を瞑ってくれる。加えてこの好景気だ、懐さえ潤えば細かなことは気にしないお偉方も多い。それに兄の奥方は現内務大臣の妹でお父上は元大蔵大臣、お祖父様は先の時代の内務卿でね。おかげであちこちに融通が利く」  名家になったとは聞いていたけれど、まさか珠守(たまもり)家がそんな家柄だったとは知らなかった。しかし、僕との結婚をそんな大事にしてしまっていいんだろうか。僕の不安な眼差しに気づいたのか、修一朗さんがにこりと微笑んだ。 「僕はね、そうしたお歴々の名前を使ってでも千香彦くんと添い遂げたいと思っている。何なら姉の婚約者は宮様の従妹でいらっしゃるとちらつかせてもいい。そのくらい、きみに本気だということだ」 「でも……僕はβで、香りが」  言いかけたところで、修一朗さんの人差し指が僕の唇にそっと触れた。 「僕は千香彦くんの香りがわかる。シャボンと少し甘い香りが混ざっているのがきみの香りだ。そして千香彦くんも僕の香りがわかる。いつもつける香水に、たまに兄の葉巻や姉が好きなコーヒーの香りが混ざっているのが僕の香りだ。それで十分だと思わないかい?」  それでいいんだろうか。いまの話だとαやΩは関係なく、ただの体臭の話のような気がする。そんな香りでαとβが結ばれるのは難しいのではと思っていると、触れていた修一朗さんの指がするりと唇を撫でた。  それだけで唇がじんわりと痺れ、首筋や背中のあたりまでじりじりとした痺れが広がっていく。鼓動がどんどん速くなるのを感じながら、僕は顔を少し上げてそっと目を閉じた。  温かくて柔らかなものが唇に触れる。軽く二度触れたあとチュッと音を立てて吸われ、また優しく触れられた。それだけで頭がふわふわし、体の芯がぞくぞくした。触れ合う場所から幸せな気持ちが体全体に広がっていく。  僕は修一朗さんが好きだ。大好きな姉が好いていたと思っていた人で、いつの間にか僕自身が好きになっていた人。叶わないと思っていた想いが通じ、こうして恋人のように触れ合えるようになった大切な人。 (恋人じゃなくて、許嫁だ)  修一朗さんは、僕を許嫁として扱ってくれている。結婚を前提にした許嫁にするように唇に触れている。まるで物語の一ページのような状況に胸が高鳴った。そんな心の隙間に、ほんのわずか不満のようなものが燻っていることにも気づいている。 (不満を感じるなんて、僕はなんて傲慢なんだろう)  これだけでも十分幸せなのに、僕はその先を求めてしまっていた。「もっと」と際限なくわき上がる欲に目眩がする。 (もっと触れてほしいなんて、僕はなんて浅ましいんだ)  いまのままでも十分に幸せじゃないか。想う人の許嫁になり結婚もできるなんて、僕の人生でこんなにも幸せに満ちた日々はなかった。一生分どころか来世の運まで使い果たしたに違いない。 (それなのに、こうして触れられるたびに「もっと」だなんて……)  修一朗さんに好いてもらって、こうして唇に触れてくれるだけで満足しなければ。わかっているのに、僕はどんどん欲深くなっていく。 (もっと修一朗さんに触れたい……もっと、僕に触れてほしい)  もう少し強く唇に触れてほしい。唇だけじゃない。あの夜みたいに耳にも首筋にも触れてほしい。もっと、僕のいろんなところに触れてほしい。気がつけばそんなことばかり思ってしまう。 (この唇で、あのときみたいに……)  耳を噛まれたときの小さな痛みを思い出し、背筋がゾクッとした。腰がそわそわし体の奥に小さな熱が灯る。その熱が下半身まで熱くするようで、慌てて卑しい思いを封印した。 (……あぁ、終わってしまった)  唇に感じていた熱が遠ざかり、幸せな気持ちとわずかな不満が心に残る。そっと目を開いた僕は、未練がましく修一朗さんの唇を見つめ続けた。
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1052人が本棚に入れています
本棚に追加