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エピローグ
テラスに置かれたソファー席に座っていると、時折気持ちのいい風が吹き抜けていく。
ガラスのフェンスの向こうに青く澄んだ海が広がり、白いしぶきを上げながらウインドサーフィンをしている人たちがいる。
「ど~う?久しぶりに働いてみて?」
菜々子が、アイスのロイヤルミルクティーに手を伸ばした。
「もう最高っ!ただ、覚えなきゃいけない事が本当に多くて…この間もさぁ~、メモを見返しても分からなかったから隣の席の男の子に訊いたんだけど、舌打ちされた!」
「えっ!怖~いっ~!!!」
「本当だね!"男の子"って言うくらいだから、かなり年下なの?」
「う~ん…たぶん20代後半ぐらいだと思うから…20こくらいは下かな~。まぁ~、仕方ないけどね!年下とは言え相手は先輩だし、覚えられないあたしが悪いんだからさぁ~」
「何か、大人になったね~!昔だったら、すぐに説教していたんじゃない?」
「説教って、菜々子…!まぁ~、確かにそうだったかもねぇ~。ただ、お義母さんに鍛えられたお蔭か、今やちょっとやそっとの事じゃ怒らなくなったし、落ち込まなくもなったからさぁ~。"お返しです!"って言って、投げキッスをしといた~!あはは。いやぁ~、本当に人生に無駄な経験ってないもんだよね~」
「何で投げキッス?…ぁ~あぁぁぁ!!!舌打ちと音が似ているからかぁ~!」
「梨子~!解説されると恥ずかしいんだけどっ!!!」
「ごめん!ごめんっ!」
菜々子が「投げキッスって、その子説教されるよりも怖かったんじゃな~い?」と微笑んだ後、「ところで、お姑さんの様子はどう?」と続けた。
「あたしからの投げキッスを怖いだなんて失礼なっ!まぁ~いいわっ。お義母さんねぇ~…案の定、『私は許しませんから!』って言ったきり、顔を合わせてもプイってそっぽを向かれているよ~」
「うわぁ~」
菜々子が両手で顔を覆った。
「本当に"うわぁ~"だよ!でもまぁ~、もう他人にどう思われようと、自分らしく生きる!って決めたから気にしていないけどね!それにしても菜々子、土曜日なのによく出てこられたね。子供たちは~?」
「夫がみてくれているの」
「えっ?"家事も育児も女の仕事だろ!"って言っていたのに?どういう風の吹き回しよ~?」
「今ね~、絶賛!名誉挽回中なの。ふふっ。息子がよくお手伝いをしてくれるんだけど、この間夫が相変わらず食後にソファーでゴロゴロしながら動画を見ていたら、『何でパパはご馳走様も言わないし、食器も片づけないの?ママがかわいそうだよ。僕はパパみたいな大人にはなりたくない!』って言ってくれたんだ~」
「息子~!よく言った~ぁぁぁ!!!」
「そんな優しい事を言われちゃったら、菜々ちゃん泣いちゃうね!」
「もうウルウル、感動だよ~!」
菜々子が、泣き真似をした後嬉しそうに笑った。
「やっぱり、頑張っていると誰かがちゃ~んと見てくれているものなんだね~!ところで、梨子は料理教室は順調?」
環がマンゴーのタルトにフォークを入れた。
「お蔭さまでっ。始めたばっかりの時は、ママ友とかご近所さんとかが来てくれて何かホームパーティーみたいな感じだったんだけど、最近ようやく教室らしくなってきたかな~って思っているところ!」
「よかったじゃん!それにしても、あんたが"先生!"なんて信じられないわ~!」
「ううん。結構、様になっていたよ~!」
菜々子がマスカットのミルクレープを頬張った。
「参加したの?」
「うん。どんな風にやっているのかな~?って思って!」
「お友達を2人も連れてきてくれたんだよね~!ありがとう。菜々ちゃん!」
「あたしも、行きたかったなぁ~!」
「え~?環は誘っても来ないと思った~!だって、計りながら調理するの嫌でしょ?」
「さすが菜々子!確かに、パパっと適当に作りたい!」
「でしょ~。だから、誘わなかったの!」
環が、チッチッチッチッ!と人差し指を横に振った。
「作らなくても、2人の様子を見たり、出来上がった料理を食べたりする事はできるじゃんよ~!」
菜々子は呆れた顔をしていたが、梨子は環らしいと思って、ふふっと笑ってしまった。
「それにしても、料理はもちろん、テーブルコーディネートもすっごく素敵だった~。お料理教室の先生は、まさに梨子の天職だよね~!」
「そんな事ないよ~!好きでよく習っていたから、また、通いたい!って思えるレッスンってどんなのかな~?って考えながらやっているだけ~」
「そっか。きっと、その考えている時間も楽しいんだろうね~!何か、不思議…やっている事自体は今までとそんなに変わらないのに、環境が変わったら全然状況が違うっ!」
菜々子が、ガラスのテーブルに視線を落として続けた。
「私も…もし勇気を出して一歩を踏み出す事ができたら、何か変われるのかな…?」
「当たり前じゃん!菜々子は、気配りと優しさの塊みたいな女だよ!今まで辛い経験をしてきた分、絶対に幸せになれるよ!」
「ありがとう環~!でも"絶対に~"?」
顔を上げた菜々子が笑った。
「知らんけど!」と言って環も笑ったが、いつになく真剣な表情で続けた。
「川魚の多くは海では泳げないじゃん?まぁ~、その逆もなんだけど。あたしたちもきっと同じなのに、"自分には何にもない!"とか"自分なんかダメだ!"とか悩んだり自分を責めたり…限界まで頑張っちゃう。でもさぁ~、頑張っても全然報われないのは、ただ《自分が今いる"場所"》が違うだけなのかもしれないよね。それなのにどんなに辛くて苦しくても、それを手放したり、そこから離れたりする事を逃げ!甘え!諦め!とか言って自分で自分を追い詰めちゃう事がある。何かもっとさぁ~…う~ん…ほら!渡り鳥みたいなイメージ!《生きる為に場所を変えてみる》っていうのも、あたしはいいと思うんだよね~!」
菜々子が、静かに目を閉じた。
「…渡り鳥かぁ~。何か、嫌な事も怖いものも何にもなくなって…自由になれるような気がする!」
菜々子は、渡り鳥になって大空を滑空する自分を想像していたのだろう。
とても優しい顔をしていた菜々子が、しばらくしてから目を開けた。
「私は…環みたいに"絶対に!"とは断言できないけど…人生は明と暗の繰り返しだったりするじゃない?だから、例え…今、目の前が真っ暗だとしても、"きっとこの先には光があるんだ!"って信じて歩いていきたいなって思うの!今まで沢山回り道をしてきちゃったかもしれないけど、2人のお蔭で、もう後悔したり自分を責めたりするのはやめようって思えるようになった!そうしたらね、何か急に今までの全ての事が愛おしく思えるようになってきたんだ~!」
「梨子にしては珍しくいい事を言うじゃ~ん!雨でも降るんじゃな~い?」
環が、笑いを堪えている。
「も~う!ひど~いっ!…あっ!あれって…もしかして…」
「えっ!何~?」
「ううん。何でもない!」
「はっ?絶対に何かあるよね~!早く言いなさいよ~!」
「えっ…でも…」
環が眉間にシワを寄せている。
「分かったよ~ぉ!でも、す~っごく"くだらない話"だよ!」
「前置きはいいから、早くっ!」
「さっきね…人生は【明と】【暗と】の繰り返しって言ったけど…英語にすると【mate】と【ant】って【友達】と【アリ】だな~って思って。そしたら、ふと前に私がベランダから吹き飛ばしちゃったアリの事を思い出したの。あのアリは、もしかしたら《ここで"暗"の部分は終わりですよ~!》って知らせに来てくれたのかもっ!って」
「"虫の知らせ"って事?」
「そう♪」
「はっ?虫の知らせは、"よくない事を知らせる"って言われているけどね~。本当に"くっだらなぁぁぁ~い"!時間の無駄だわ~!!!」
「もぅ~!!!だから、そう言ったじゃ~ん!ふん!」
梨子がガラスのフェンスの方に顔を向けた。
「も~う。そうやって、いつもケンカしちゃうんだから~」と菜々子の声が聞こえる。
砂浜も海も、いつの間にか人でいっぱいになっている。
窮屈そうで思わず視線を上げた。
そこには、雲1つない青空が広がっている。
完
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