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1.プロローグ
「今年の日本も随分と暑いな。日本のどこに行っても暑いじゃないか。たった1世紀で気候が変わりすぎだ。」
私は偉そうに一人掛けのソファーに座る男を一瞥し、また自分の手元にあるスマートフォンに視線を戻した。
「夏海。ずっとその機器を使っていると目が悪くなる。たまには目を休めて本でも読みなさい。
最近の子供は電子機器に夢中になりすぎる。暇を持て余せるほど人間の持ち得る時間は長くないというのに。」
自称拓哉はぶつぶつ文句を言いながら立ち上がると、本棚にある一冊の本を取り出し私の近くに置いた。この男がいつも何かにつけて私に薦めてくる本の名前はもう見なくてもわかっている。普段読書をしない私からすると気が遠くなるほど厚いその本は、この男のお気に入りだった。
「これは私のバイブルだ。初めて読んだのはもう10世紀も前になるが、あの時の感動を超えるものは未だ存在しない。夏海、是非読んでみなさい。」
タイトルを見てみると、やはり『源氏物語』だった。
1000年以上前に紫式部によって書かれた日本初の長編物語。光源氏という男性がたくさんの人との恋愛物語という上辺の情報しか知らない。なぜなら拓哉から何度薦められても読む気がせず、古典の授業でしか読んだことがないからだ。
そんな昔に完成した物語を目の前の彼はどうやらタイムリーで読んでいたらしい。それが本当だとしたら彼は軽く1000歳は超えている計算になるが本当なのだろうか。自称拓哉が一体何歳なのか、私は怖くて聞くことが出来ていなかった。
「この源氏物語という話はな、光源氏という男前がただたくさんの女性と関係を持つ女好きの話だと先日テレビで放送していたのを見たが、そんな単純な話じゃないんだ。母親を早くに亡くした少年が寂しさや悲しさを埋めるかのように埋まることのない心の隙間を他の女性の愛情で埋めようとする。何て切ない物語なんだ!」
彼の説明は私が覚えているだけで5回は聞いた。それもいずれもこの情熱で。それほどまでに彼にとっては衝撃的な物語だったのだろう。
彼は私が大して興味がないことはお構いなしで更に長々と話し続けた。
自称拓哉が源氏物語の素晴らしさについて語っていると、家の固定電話がジリジリと鳴り響いた。恍惚とした表情で語っていた彼は、一瞬で緊迫とした雰囲気を身に纏い電話の受話器を取った。
話の内容は全く聞こえてこず、それに対して拓哉も相槌を打つことなくただ聞いているだけだった。
「承知した。今から向かう。」
何も発さなかった彼はそれだけ言って、その受話器を丁寧に戻した。
拓哉が小さくため息をついた。
私はこの瞬間が嫌いだった。
「夏海、行ってくるよ」
彼がわかりやすい作り笑いを貼り付けて私に微笑むこの瞬間が。
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