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4.猫ドア通れるわけじゃなし
帰り道。ついてくる月を撒けそうな気分。
斉藤さんの肩は僕の物だった。
「どう?」
「不思議です。血をみる気がしないし、もし、血をみても平気そう」
「そう、良かった。そんなもんよ、どんなに痩せたって猫ドア通れるわけじゃなし」
「なんですか、それ」
「山よりでっかい猪は出ないとかそんな類の誰かの空元気じゃないかしら。夢にしてしまえばいい。現実は痩せたとて猫ドアは通れない、現実は、緩くはない」
「こんなこと、いつもしてるんですか?」
「こんなこと、してるよ。あなたみたいに心にしんどいこと抱えてる人を楽にさせてあげられる、私の能力、だもの。たくさんしたよ」
「仕事、じゃないですよね」
「じゃないじゃない。儲けは考えてない、慈善事業の勧善懲悪です。あ、アンマン奢ってくれてありがとう、これからはマストにしてせびるかな」
「どういたしまして。あの、どんなのなんですか? 勝手なイメージだと心に留めておけない思いって、ほら、教会の懺悔室とか、そんな感じ? も、あります?」
「んん、そんなのもないことはない、けどほら、さすがに私に言えないこともあるじゃない、私はシスターじゃないから、犯罪を告白したらその足で交番行くかもしれないし」
「行きます?」
「内容により、かもしれないじゃない」
「まぁ、そうですか」
「透明なカエルがいるじゃない、内臓が透けてみえる。あれの人間版だって言うの。友達のお爺ちゃんは痩せすぎてて、心臓が透けてみえたんだって。とか、槍投げの審判に槍が刺さっちゃった映像をみて以来、刺せなくなったんだって、ストローも、たこ焼きに爪楊枝も」
「それは、深刻ですね」
「ねぇ、たこ焼きお箸じゃ、様になんないもんね」
「ですね」
グングン、自転車が月を置きざって僕らは二人夢から抜け出す。現実は緩くない。斉藤さんの吐息が聞こえる。僕の心音は斉藤さんへの思慕によって正しく、速く鳴った。
「後は、なんとかってチョコが好きだったのにコンビニから消えた、とかもありました」
「言っちゃ悪いけど、そんなのも?」
「いや、馬鹿にしちゃいけない、要は心の水が零れて溢れるってことで、溢れさせたコインの額面に意味はないんだよ。後から幾らでも書き込めばいいの」
「あ、カッコイイ」
「だろ?」
と、斉藤さんは月を指差した。
「歌うよ」
と言って、思い出のグリーン・グラスをうたう。
「エンディングテーマ。続いて気象情報&交通情報。時報は何時でもお好きになさって」
待ち合わせ場所に帰ってくる。
「それじゃ」
と、言い残して、斉藤さんは自転車と消えた。
僕は一人、夜を歩いてうちに戻った。
寝ている家族を起こさないように、ジーンズだけ脱いで布団に潜り込む。
「血をみるかもしれない」
自転車のスピードがリズムのない平行のスライドが、眠りの傾斜になってゆく。余韻、に斉藤さんの歌が聴こえる。
「レコードってあるでしょ」
「うん」
夢の中、中学生の僕と、初めてできた彼女が話している。
「その、原始的なのを小学校の工作で作ったの、お父さんと」
「へー」
「プラスチックのコップに針で溝をつけてね、私がコップに歌をうたったの」
「うん」
「その震えが溝に刻まれてね、なぞると再生されるの」
「そうか、凄い」
「だから、私の体を刻んで欲しいの」
「え?」
「だって陸男君とのこと、初めてのこと、何度も再生したいんだもん」
いつも、この夢をみると僕は叫んで家族を起こしたんだ。
病院に行っても、お医者は薬の錠剤に事を落とし込んだだけ。
今夜の夢に、猫ドアがみえた。
僕はそこから逃げ出す。
朝。
何事もない朝。
僕は予備校へ出かける前に図書館へ寄った。
受付に斉藤さんの姿はなく、館長さんは「あの子は辞めたよ」とだけ教えてくれた。
僕は、斉藤さんに会いたくて公園のベンチで寝た。
何度も何度も、場所を変えて、時にはあのパン屋のシャッター前でも。
だけどいつまでも、思い出のグリーン・グラスは聴こえてこない。
現実は、緩くなかった。
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