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1.血をみるかもしれない
体重で冷蔵庫を押して開きたくなるときがある。中に期限を過ぎたチーズぐらいしかないことを知っていてもだ。
心音だ、と思う。
ネックレスが心臓の音で絡まったんだと思う。ネックレスなんてこの方したことがなくてもだ。
歩くうちにほどけるとも思わないけど、僕は靴を履いた。時と離れて、解き放たれて、吐息を吐いて、リズムを味方に知ってる道を歩いた。
「血をみるかもしれない」
普段は記憶に眠らせてある、トラウマ、というやつ。浮いてきた死体を沈めるバイトは都市伝説らしいけど、誰か沈めた記憶を浮かばせないアルバイトやりませんか。
子供の頃通ったタバコ屋。父さんに貰ったキャメルのステッカー。赤信号。
「あの子、信号赤になった瞬間に現れたよ」って上級生女子集団に笑われたこと。道路を車が往来する。「足を走ってる車のタイヤに踏ませたって痛くないんだ」と兄に教わって試そうとした日。「今だ」道路に転がした十円を拾いに出るタイミングを教えてくれた人。
心臓の音が記憶ばかりをほどいていく。
ポストに座ってた少女はスカートの中に何も身に着けていなかった。お婆さんに手を引かれてその子が去った後、僕は同じ場所に掌を当てていた。「吉田」と表札の下がったポスト横の家に犬がいて、全部バレてると思った。駅へ向かう緩い下りの坂道、盗んだ自転車を坂の上から「捨てる」遊びが流行ったことがあって、僕は不良の石垣君から「8点」を貰った。
着けてもいないネックレスをほどきながら、心音は快調に写譜を待ってる。
足の向いた図書館で、僕はフェルトペンを握っていた。使い慣れたペンじゃないから自分で書いた自分の名前がよそよそしい。会釈したくなったけど変に思われても悲しいので止めておいた。このできなかった会釈がまたネックレスを絡める心音になるとわかっていてもだ。
「本は一度に5冊まで、CDとビデオはふたつまでです、延長はお電話でも、ただし御予約が入ってる場合はできません」
胸に「斉藤」と書かれた司書の女性が説明をしてくれる、眼鏡に縁がなかった。なのに、歯に矯正具があった。
僕と「斉藤」さんの視線が相席にもならないでウロウロする。僕は貰ったパンフレットに目を落として、貸出カードを財布に仕舞うと「どうも」と身代わりの会釈を残して図書館の二階に上がる。途中「グーパー、グーパー」と言いながら階段にチョキを分けない少年がいた。つむじが二個確認できて、瞬間、血をみたような気分になる。
誰かアルバイトをしませんか。
あの日僕がみた血の記憶を沈めるだけの簡単なお仕事です。
だけど多分、他人の記憶を沈めるためには、あなたの沈められなかった記憶が必要になると思います。
ごめんなさい。
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