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3.思い出のグリーン・グラス
「大舟です」
斉藤さんが胸を拳でコツンと叩きながら言ったので、図書館の静謐でのろまな空気が一変する。
「人間の中で『夢』にでもしないとどうしようもない現実ってありますよ。『夢であってくれ』って呟くでしょう、あなたも、なら夢にしちゃえってことですよ」
今頃冊子のイラストでお爺さんの蝶ネクタイがきっと本物の蝶になって飛んでいるだろうと思う、日本の国蝶オオムラサキになって。それぐらいに斉藤さんの存在は突然と幻想的だった。
「善は急げ、鉄は熱いうちに、あ、カレンダーは生憎仏滅、ふふ」
カレンダーをみやって、仏滅に破顔しながらなぜ親指をグーサインに立てたのだろう。僕はグーサインを返せない。けれど、それでは本も返却しないと思われかねないので、遅刻した恥ずかしさに照れ笑いしながら、グーを返した。奥で館長さんと思われる肥満体のおばさんが僕を睨みつけていたけれど。
「はい、今夜、待合せましょう。自転車で嫌じゃないですよね?」
「え、うん」
浪人生の僕と、司書の斉藤さんは夜に自転車で何処へ出かけるのか、驚きすぎた心音が僕を置き去りにしていくから、ネックレスは絡まない。空っぽの歪みが肩甲骨に、痒い。
夜。
斉藤さんは司書然としたコンサバな姿のままで待ち合わせ場所に現れた。デートという文字がハラハラと崩れていく。
グリーンチェックの襟が正しくスウェットを寝かしつけている。夜だ。
「じゃ、後ろに」
とだけ斉藤さんは言って、僕らは自転車二人、高速の下道を都市部に向かって走り出した。
「普段は電車でしょう? それとも若くみえるけどもう免許?」
夜の自転車スピードが髪を一本ずつに視認させる、嗅いだことのない石鹸の匂いに戸惑いながら、僕は斉藤さんの言葉に追いつこうと必死だった。
「浪人で年齢的にはとれますけど、あ、原付の免許はあるんです」
「なーん、新聞でもお配り?」
「や、そんな真面目じゃないです」
「夜の自転車って時間に疎いから、何処へでも行けちゃうから。電車で降りるのと自転車で滑り込むのじゃ入り口が変わるからね、街がいつもと違うはずですよ」
たまに、ペダルを遊ばせて、ブレーキは嫌な音もさせない。自転車はいつの間にか繁華な街を駆けていた。
「お兄さんのその血の思い出ね」
斉藤さんが紙芝居で泉の女神役をやればいい。そう感じる声で僕を洗ってくれる。僕の落とした斧は、鉄の斧です。
「今から夢にするから」
「ね?」
首を可動域の限界まで曲げて、僕を覗いて言った。自転車がふらついて、危ない。
「夢?」
僕が訊き返すと、嬉しそうに「夢!」とちょっと叫ぶ。
「私ね、今から何年か前、アパートの隣で改装やっててね、大学の休み期間だったんだけど、朝から夕方まで足場組んで作業してるの。その声を聞きたくなくって、ラジオ、イヤホンで聞いてた。疲れてたのか、そう、夜のアルバイトもしてたからって、お水じゃないよ、清掃だったんだけど」
斉藤さんは時々ハンドルから片手ずつ離しておでこを掻いたり、耳の裏を掻いたりしていた。その度に、僕は自転車に装着されたステップを軽く足裏で叩いた。
「ちょ、あんまり跳ねると六角もげるよ」
と、斉藤さんに言われるまで。
「六角?」
「ああー。地方性出るやつだね、大判焼きとかその土地で名前を変える生意気な奴、ひひ」
「うちはステップって言ってました。後は、ハブとか」
「ハブ? アイハブアハーブ、なんちゃって」
斉藤さんの笑い声が夜を駆ける。こぼさないように、したい。
「ラジオ、NHKの第二。語学講座。聞きながら眠っちゃったのね。そしたら夢をみたの。南米っぽい装束のお母さんがリンゴを剥いてた。でも小さな子供を抱きながらナイフでするもんだから、私、危ない、危ないって言ってるの。でも、そのお母さん、子供用にだけ、リンゴを小さく切り分けて皮も剥いて、それ以外は大雑把に半分にカットしてそのまま、床の絨毯に並べていったの。大人たちはきっとそれをそのまま齧るのね。そんな夢。でね、言葉は夢になるんだって思ったんだ。わかんないけど、あの時の語学講座の内容がどれだけ夢とリンクしてたかわからない、リンゴを剥くお母さんは出てこなくて、エジプトのお墓を暴く考古学者の話だったかもしれないんだけど」
「聞き返さなかったんですか?」
「うん、ほら、親がわかったら復讐に行きたくなるかもでしょ?」
斉藤さんは良くわからないことを言い残して、自転車を止める。
「終点。もしくは世界の終わりです」
トン。ステップでありハブであり急に六角な金属の棒から、僕は地面を踏む。聞き慣れないトーンのアスファルトがお辞儀をした気がした。
「いた」
と、パン屋の閉まったシャッターに寄生するように眠る路上生活者を顎でしゃくる。段ボールが上下する。寝息で街の夜空を上げ下げしていた。
僕は少しだけ、怖いという感情を抱きながら、悟られないように斉藤さんに追随する。
歌をうたっている。
「思い出のグリーン・グラス。森山良子。声は夢になるの。貸出カードに書いた名前。村田陸男君。テーマ曲よ。ラジオは始まりました。こっからが夢の道。駆けるよ」
距離を失くした。交番はすぐ近くの交差点角にある。
「言葉は夢になる。あなたの声からこの人の耳まで、夢の道。駆けて帰らない。さ」
街の上下が寝息になって、僕は語った。斉藤さんは僕の駆ける夢の道を瞳の色滲ませてみつめている。中腰の背中に最低限の肌色がみえた。
「血をみるかもしれない。ということが極端に怖くて、僕の心臓はネックレスを絡めるようになりました」
僕は斉藤さんのリアクションだけを頼りに、心臓を開放する。
斉藤さんは大袈裟に目を剥いたり、アヒル口にしたり、色めかしく聞いてくれたから、僕は言葉をずっと続けた。
夢の道に僕のトラウマが逃げていく。リンゴを剥くお母さんは誰よりも子供を愛しているのだし、床の絨毯はきっと預言者の幻視した未来が織り込まれているはず。
「僕がみたのは……」
帰りの自転車、前後を交代することもなく斉藤さんがペダルを漕いだ。思い出のグリーン・グラスがまだ僕の耳には残っていて、二人で齧っているアンマンも多分、少しいつもより美味しい。
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