鏡のなかの

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 その後は、精算した商品を店名ロゴが入った紙袋に包んでもらって店を後にした。直前に目薬を買い忘れたといって夫が売り場まで戻ったりもしていたが、後は寄り道をすることもなく帰宅した。  家に着くとくつろぐよりも先に、夫が言った。 「ねえ、さっき買ったアイシャドウ、実際につけて見せてよ」 「これからですか? 今日はもうどこにも出かけないですよ」  できれば次の外出の時に下ろしたかったけれども、見せて見せてとせがむ夫に根負けして、買ったばかりの商品パッケージを開封する。  そして、部屋からスタンドミラーを持ってきて、リビングでその目元に化粧を施す。店に行く前にベースメイクは済ませていたので、買ったアイシャドウだけをそのまま上から塗ることができた。  その様子を夫が見守っているのが何とも小恥ずかしいけれど、ケース裏の説明書きに従って、瞼の上に順番に色を重ねていく。  落ち着きと透明感のあるブラウンのグラデーションが細やかなラメとともに輝いていた。 「結構いい感じ……かもです」  それが率直な感想だった。  パレットではあまり華やかさを感じなかった色が、優しい陰影として目元を飾ってくれている。心なしか、元々よりも目が大きく見えて明るい印象になっている気もする。 「こっちも、ちゃんと素敵な色でした」  無難だから、という受け身な選択だったけれども、それを上回るほどの色彩で私の心は満たされた。初めに目をつけたものとは異なる決定だったが、“有り”だと本心から思える。 「確かに綺麗だね。似合ってるよ」  振り返って顔を見せると、ほっとしたように緩んだ表情で夫もそれを褒めてくれた。 「それが君の選んだ色なんだね」 「はい」  私がはっきり頷くと、彼は出かけた時に身に着けていたボディバッグのなかから、小さな紙袋を一つ取り出した。先ほど買い物をしたドラッグストアのものだった。 「じゃあ、こっちは僕の選んだ色」  そう言って彼が袋から取り出したのは、私が買ったものと色違いのアイシャドウパレットだった。 「えっ、これって……」  あの時、二択で迷っていたもう一つのパレットだ。  いつの間に買っていたのだろう、と振り返る。恐らく、帰り際に目薬を買うと言って彼だけ店内に戻ったタイミングだ。 「別に一つじゃなくたって、二つ持っていたっていいじゃない。もう大人だもん」  悪戯っぽく笑いながら、夫は言う。 「君の選ぶ道はね、君が思っている以上に自由なんだよ。選びたいものが沢山あってもいいし、一つに決めてもいいし、後で変えてもいいし、戻ってもいいし。それで、僕はこうして時々横槍を入れながら、一緒に歩くよ」  胸の奥でふわりと響いた夫の言葉を嚙みしめて、暫く浸ったのち、私は「ありがとうございます」とお礼を言い、もう一つのパレットを受け取った。  ブラウンは普段仕事に行く時に、ピンクは休日の外出用に使い分けたいと言ったら、「それ、いいね」と彼は満足そうに頷いた。  じわりとした余韻のまま弾む心で、私はもう一度鏡を覗き込んだ。  温かみのある色で目元を不器用に彩った女性の奥で、小さな女の子がにっこりと笑った気がした。
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