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桜の季節 再会
まどろみの中、何度も同じ夢を見る。
夢ではない過去にあった現実だと認識はしている。
大好きな幼なじみと過ごした日々。
彼はいつも私にささやく。
いつも曖昧な夢の中のぼんやりとした記憶――。
たしかに彼の声は鮮明に刻まれている。
でも、何という会話をしたのか、朧気で、不確かでほとんど覚えていない。
「合言葉は○○○○だよ。これは魔法の言葉だよ」
その台詞はなんとなく覚えているけれど、肝心の合言葉の部分はいつも夢の中でも無音だ。起きている時間に必死に思い出そうとしても、全く思い出せない。その合言葉はなぜ魔法の言葉なのだろう。それを言うと何かが起こるというのだろうか。たしかに、大好きだった彼と会話をしたことは覚えている。でも、なぜそんな話をしたのかも前後のことは覚えていない。
幼いときに仲が良かった蒼君。
蒼色がよく似合う元気で優しい少年だった。
蒼い空の下にはいつも蒼くんがいた。
記憶の中の蒼くんはいつも笑っていた。
だから、彼が同じ高校に入るということを知った時には、胸が高鳴った。
親同士が仲が良かったので、引っ越して時は経ったものの同じ高校に受かったことを知った。蒼くんはこの町に戻って来たのだ。
だからこそ、再会のその瞬間を心待ちにしていたのはいうまでもない。
彼のことは大好きだと胸を張って言えた。
連絡をすることもなかったけれど、きっと再会したら、彼は優しい笑顔を私に向けてくれるだろうと私、羽留は心から、再会の瞬間を待ち望んでいた。
お別れしたのは小学一年生の頃。十年後にまた会えたらいいねと言っていたことが実現した。当時はスマホを持っているわけでもなく、個人的に連絡することもなく十年は過ぎた。その間、誰かを好きになることもなく、蒼くんのことだけを想っていた。一途な恋。でも、何もその間連絡しようとしなかったのは、勇気がなかったのかもしれない。親同士が連絡先を知っていたから、いざとなれば連絡が取れると思っていたのもある。遠くの町へ行ったとしてもまた会える。根拠のない自信を持っていた。たしかに、十年後にまたこの町に帰ってくるとは言っていたものの、親の仕事なんてわからないし、本当に帰って来るかどうかこの時点で二人は知る由はなかった。しかし、幼かったせいなのかもしれないけれど、絶対また一緒の町で過ごせると思い込んでいた。願望のようなものが動いていたのかもしれない。
また、出会えたら合言葉は「○○○○だよ」。
声変わりする前のかわいらしい声。優しく包み込まれる感じがする。
思い出せない合言葉にモヤモヤは止まらない。心臓がむずがゆい。かゆいところに手が届かないとはこのことだろうか。
そんなことを思いながら、高校の予備登校へ向かう。
蒼くんが同じ高校に入学したと母親に聞いていた。
きっと運命の再会だ。
初恋は実らないなんてことはない。
ドキドキしながらクラス発表の掲示を見る。
たくさんの名前が紙の上に溢れていたが、探していたのは清野蒼という名前のみ。
クラス発表を見ると、同じクラスに、なんと、蒼くんの名前がある。
神様、ありがとう!! 普段は神様なんて拝みもしないくせにこんな時だけ感謝してしまう。
胸が高鳴るのを抑えられない。頬が自然と熱くなる。
きっと向こうも私との再会のことを心待ちにしているだろう。
小さなとき、蒼くんは私に対して好きだと言っていた。
転校する直前にも、恥ずかしいとか照れなんて全然彼には存在しない様子で、好きだと言われた。
だから、どこか自分に自信があったのかもしれない。
私が特別かわいいとか美人とかそういう部類ではないけれど、蒼くんは好きでいてくれるという勝手な自信だ。
慣れない教室に入ると知らない人ばかり。教室には独特の緊張感が流れていた。
すぐに見てわかった。背も伸びて、大人びているけど、絶対にこの人が蒼くんだと確信した。笑顔の蒼くんがいる。それだけで嬉しい。声を掛けようかと思ったけれど、何やら少し派手な感じの女子と談笑していて、とても入れそうにもない。同じ中学の友達だろうか。幼稚園の頃から男女分け隔てなく接する子どもだった。誰にでも優しいのは健在だと思った。声はイケボ声優のような感じになっており、教室に響き渡る心地よい声を堪能する。声変わりしたのだと実感した。
結局、声をかけることもできず、ホームルームが始まった。名前を呼ばれるので、きっと私の存在に気づくだろうと思う。でも、終始彼と目が合わない。きっと思春期で恥ずかしいと思って目を逸らしているだけだよね。もしかして、気づいていないのだろうか?
帰り際、蒼くんが一人になるのを見計らって声をかけてみる。
勇気をレモン汁のようにぎゅっと絞る。
胸が高鳴る。ドクンドクンと心臓が波打つ。
下唇を噛み締めて、手のひらをにぎる。
「蒼くん、久しぶり」
一瞬の沈黙が走るが、蒼くんのまなざしは冷たく鋭い。まるで、知らない人に対する警戒心をあらわにする。
「誰だよ、おまえ」
10年間待ちわびた言葉がこれとは、神様は残酷なことをする。
冗談ではなく、真顔だった。
完全に忘れ去られていた。現実を受け入れられない。
でも、小学一年生の記憶くらいならば覚えているだろう。
でも、その時の感情を10年維持できるかというと、そうでもないかもしれない。
今更ながら、現実を見る。
あぁ、恋心は私の一方通行だったんだ。
思い続けていたのは私だけだったんだ。
がくっと肩を落とす。
初恋は実らないという言葉は本当だった。
「私、同じ幼稚園と小学校に通っていたんだけど、蒼くんは小学校1年の時に転校したよね?」
「もしかして、夢町幼稚園? 夢町小学校の人?」
驚いた顔で聞いてくる。本気で覚えていないらしい。
「そうだよ。そして、近所に住んでいてよく一緒に遊んだよね。お母さん同士が仲良しだから、同じ高校に合格したって聞いてたから」
「たしかに、幼稚園も小学校も通っていたけど、おまえの名前って何だっけ?」
「私の名前は舞空羽留」
「わりいけど、おまえのことは全然記憶にないんだよな。母さんにも、知り合いの子が同じ高校に入ると聞いていたけど、本当に思い出せなくてさ。記憶力には自信がある方なんだけどな」
派手な女子はメイクをばっちりしていて、同じ歳なのに全然別世界の人みたいだった。聞き耳をたてていたらしく、かなり仲がいい様子だ。
私もメイクデビューは高校からしたいとは思っていたけれど、まだまだアイメイクをうまくできそうにもないし、メイク道具を買うこともできていない。近々買ってはみたいけれど、何色が合うのかもわからない。自分に合う色がわからない。だから、なにもできていない。言い訳ばかりが並ぶ。少し遠い存在のメイクという存在は私にはまだかな、という気がする。
「一方的なストーカー的な恋心って怖いよね。一方的に思い続けていたとかそういう話でしょ」
いつのまにかやって来た別世界のクラスメイトは憐みの顔で蔑む。
「違うよ」
即否定する。しかし、そこにいたグループの男女はみんな垢抜けていて、私のことなんて別世界の住人のように扱う。きっとこの先もこの人たちと同じグループに入ることはできないだろう。別世界に行ってしまった蒼くんへの未練を断ち切らなければいけないと思った。
「俺、この町で過ごしたことは覚えているんだ。でも、本当におまえのことだけ思い出せないんだよ」
申し訳無さそうに言われる。
私のことだけ思い出せない?
やっぱり嘘だと信じたい。
「そんな馬鹿なことってある? 小さい時に一緒に撮った写真持って来るよ。いつも大好きって言ってくれたよね。また十年後に会おうって」
必死な素振りを見透かしたような蒼くんはめんどくさそうに装う。
顔に出やすいのは昔からだ。良く言えば正直者ということだろう。
「別にどっちでもいいけどな。なぜだかはわからないけれど、おまえの記憶だけ抜け落ちてるんだよ。知らない記憶があるなんて、気持ち悪いだけだ」
蒼くんは変わってしまった。
心底嫌な顔をされるなんて。これ以上嫌な顔をされたら私の心臓は壊れてしまう。
蒼くんの顔立ちは、両方を兼ね備えている。かわいいしかっこいい。一言で言えば、見た目がいい顔立ちは変わらない。少しばかり大人びただけ。少しばかり派手でおしゃれな雰囲気になっただけ。別人のように変わってしまったのは内面なのかもしれない。近づきにくいオーラを放つ。顔立ちがいいから、クラスの女子たちは仲良くなろうとしている様子がうかがえる。これから、蒼くんは私のいない青春を送るのだろうと残念に思う。取り巻きの女子たちがきゃあきゃあとうるさい。耳障りだ。
気持ち悪い生き物を見るかのような冷たい眼差し。
今後、蒼くんのことは忘れよう。
関わらずに生活しよう。
そう決めていたのに――自宅に帰ると、見慣れない車が停まっていた。
見慣れない靴が玄関にある。女性の靴と男物のスニーカー。
「お久しぶり。羽留ちゃん」
「蒼くんのお母さん!!」
久々に会った蒼くんのお母さんはとても優しい笑みを与えてくれた。
十年経ってほとんど外見は変わらないけれど、目じりが少しばかり下がったような気がする。更に優しい印象になった。
「こんにちは」
仏頂面の蒼くんが目の前にいる。
それでも嬉しいと感じているなんて、笑っちゃうくらい蒼くんを好きだと思ってしまうのだろうか。
「しばらくの間、蒼を羽留ちゃんのうちに居候させてもらいたいと以前からお願いしていたのよ。実は、夫が海外転勤になったの。でも、蒼は日本の高校に通いたいと言っているのよ。転勤が決まったのが急だったの。いい物件が見つかるまでお願いするわ」
お母さんはにこにこして引き受けてしまっていた。勝手に相談なく引き受けるなんてひどいよ。
「お父さんにも相談したら、二つ返事でOKだって。羽留は蒼くんラブだから、反対しないだろうし。一時的だから、仲良くしてね」
「え? 嘘でしょ?」
思わず固まってしまった。なぜ、あんな冷たい男と学校だけでなく、安息の地である自宅で過ごさなきゃいけないのだろうか。たとえそれが、初恋の大好きな人だとしても。正確に言えば、初恋の大好きだった人。過去形だ。
「早速今日から、こちらのお宅でお世話になります。よろしくおねがいします」
礼儀正しい挨拶。大人の前だと別人のように優等生。
猫を被るとはこのことかもしれない。
裏表のある人間に育ってしまったのだろうか。
さびしい気持ちになる。
「あの時は、大変だったわよね。私たちが引っ越す少し前に羽留ちゃんが事故に遭ったことがことがあったわよね」
そういえば、小学一年生のころ交通事故に遭って、入院したことがある。死んでもおかしくなかったけれど、奇跡的にけがを負うことなく回避したらしい。気を失った私を見て、蒼くんは救急車を呼んでくれたと聞いた。大泣きして大変だったとも聞いた。入院中だったから、急に引っ越すことになった蒼くんは、挨拶することもなく行ってしまった。退院するといつのまにか、蒼くんは引っ越ししてしまった。子どもは大人の事情に逆らえない。どんなに仲良しでも、引越ししたくなくても、親の都合に合わせなければ生きてはいけない。だから、同じ幼稚園だったり同じ小学校だった同級生ということは奇跡なのかもしれない。
「あの後、うちの蒼の様子が少しおかしかったのよね」
「どういうことですか?」
「しばらく、事故の記憶やこの町であったことの記憶がなくなったみたいなの」
「一時的な記憶喪失じゃないかしら。幼い子どもにはショックだったと思うし」
羽留の母親が心配そうな顔をする。
「今でも覚えていないんですよ。羽留さんのことは記憶からなぜか抜けてしまっているんです」
蒼くんは姿勢もよく礼儀正しい言葉遣いをする。
学校ではもっとあからさまに邪険な顔をするくせに、親の前だと丁寧に名前に「さん」づけだ。
変わったんだなぁと改めて蒼くんの顔をじっと見つめる。
蒼くんの顔はアイドルみたいに整っていて、かわいらしいというか綺麗というか――女子の私よりもずっと美しい。
羨ましくなってしまう。さらさらした髪の毛も長いまつげも大きな瞳も全部がかっこいい。
でも、性格は悪いと思う。私は性格重視だから、彼のことは絶対に好みではない、と言い聞かせる。
母親同士が学生時代からの親友だ。今でも仲良しということで、同居の話はスムーズに進んでいった。
反対すると場の雰囲気を壊すし、せっかくの高校生活のスタートを邪魔することになってしまう。
場の雰囲気を壊すのが大の苦手な私は、そのまま黙ってしまう。
幸いお客様用の宿泊用の部屋が我が家にはあるので、同居とは言っても、そんなに接点はないだろう。
学校、部活でそんなに家にいる時間はない。
更に、この地域の物件は豊富だから、すぐに引っ越すだろうという予測はつく。
お金に困ることもない蒼くんの親はいい物件があれば、すぐに契約するだろう。
一時的だと自分に言い聞かせる。
母親同士が話が盛り上がる。
私は部屋の案内を押し付けられた。
あの頃の蒼くんと一緒なら、どんなにか嬉しかったんだろうか。
「この部屋、お客様宿泊用だから、使って。たまに親戚が来た時くらいにしか使わないんだけどね」
「わぁ、結構広いんだなぁ。さっき言ってた幼少期のアルバム見せてくれ」
「どうせキモイとか思ってるんでしょ。覚えてないみたいだし」
「俺、記憶には自信あるんだけどな。どうにもおまえのことだけ思い出せないのはむずがゆくてさ」
頭をぽりぽりかきながら、気難しい顔をする。
旅行鞄にとりあえず使う洋服などを詰めて持って来たらしく、重そうな鞄を置く。
畳の部屋にお客様用の布団があり、これを使うように指示を出す。
無意識に距離を取ってしまう。
嫌われているのに、近づくのも悪いような気がする。
あんなに会いたかった人が今隣にいるのに、すごく遠い。
「アルバム持ってくるね」
一瞬、間が空く。
「おまえさぁ、俺のこと好きだったりする?」
予想もしないストレートな質問に驚き怒る。
顔はきっと真っ赤になり、驚きと怒りの混じったどうにもならない表情になっていたかもしれない。
自分の顔が想像もつかなかった。十年間ずっと会いたかった人。
その人は私のことを忘れていた。夢と現実は違う。
恋愛物語というものはお互いがずっと大切に想いあっているものが王道だ。
しかし、私は恋愛物語の主人公ではない。
忘れられているのが現実で、相手にもされていない。
「たしかに、昔のあなたのことは好きだったけど、今のあなたのことは好きじゃない」
思った以上に大きな声が出る。
「そんなこと言っていいのかな? 後悔するかもよ?」
にやりと笑う蒼くん。ムカつきながらアルバムを持ってくる。
「解説してよ。俺、この頃の記憶がないんだよね」
距離が近い。こっちが勝手に緊張してしまう。
改めてアルバムを見ると、なんて自分は普通の女の子なのだろう。特別美人でもなく特別ブスでもないと思う。
どちらかというと目立たない、とりえのない女の子。
それに比べて、蒼くんは凛々しくて、幼少期から華のある顔立ちだ。
この時は気づいていなかったけれど、そもそも私と彼では顔のレベルが違う。
男子は顔がイケてなくても面白ければ美人にもモテるけれど、女子は顔がイケてないと美男子にモテることはないような気がする。
芸能人を見てもそうだ。芸人男性は女優と結婚するけど、芸人女性がアイドル男子と結婚するという話は聞かない。
女は損なのかもしれない。
「まじで、仲が良かったんだな。いつも俺の隣にはおまえがいたんだな」
目を細めて懐かしそうに語る。
本当になぜ記憶がないのだろう。
幼稚園に入る前から、物心がつく前から私たちは一緒に遊んでいたらしい。
ピコンとスマホの音が鳴る。
「あ、美優かよ」
「美優ってさっき教室にいた女子?」
「そうそう」
「もしかして、彼女だったりするの?」
「いや、友達以上恋人未満の関係。おしかけ彼女みたいな感じだけど、好きになるまで恋人未満でいいって言ってくれていてさ」
一瞬で衝撃波をくらう。私の心は撃沈する。まるで隕石が落ちて来たかのようだ。今日は衝撃が多すぎる。
「って言っても、まぁ形だけかな。何度も告白されても、好きにはなれてないんだ。美優のことは嫌いじゃないけどさ。美人だし、勉強もできるからな。とりあえず中学の時からその関係は続いていて、恋人未満」
この男、非常に冷酷だ。女子の恋心をわかってない。
「美優とは、恋人みたいなことってあったりしたの?」
興味深い。初恋の人の恋愛遍歴。
「バレンタインとか一緒に過ごしたり、デートはしたけど、心がときめかなくってさ」
「美優っていう子、かわいい顔をしてたじゃん。どんだけ贅沢なの?」
「わかんない。俺は、そーいう心が欠落してるのかもしれない。一度も恋愛心を抱けない自分がいたんだよな」
「変な奴」
「おまえこそ、彼氏とかいねーのかよ。まぁ、いなそうだよな。男子と話すのに慣れてなさそうだし、顔立ちもぱっとしないしな」
苦笑いされる。絶対に馬鹿にしてるでしょ。
「馬鹿にしないでよ。私だって、告白されたことはあるんだからね」
「でも、付き合ってないんだ?」
「好きな人じゃなかったから断ったの。でも、その人は同じ高校で同じクラスになったよ。今でも好きだって言ってくれてる」
この話は本当だ。中学が一緒だった大滝零次。彼は私のことが好きだといつも言ってくれる。
だから、異性としての意識はしているけれど、蒼くんのことが好きだから、ずっと断っていた。
でも、今日、断る理由がないことに気づく。
蒼くんは私のことを何とも思ってない。
「零次くんと付き合ってもいいかもしれない」
「零次君っていうのか。物好きな奴もいるんだな」
まじまじと顔を見られる。
「おまえはこの写真と全然変わんねーな。地味だし、鈍臭そうだし」
「蒼くんって昔はもっと優しかったんだよ。また会えたら一緒に遊ぼうねって言ってくれた。私のことを大好きだって言ってくれたんだよ。私は、ずっと会えるのを楽しみにしていたのに。好きだったのに……」
「俺、おまえのことはタイプじゃないし、好きじゃない」
好きじゃないしという言葉が何回も耳の奥で響く。
五回から十回はリフレインしているような気がする。
私はタイプじゃないのか。もう、怖いものはなにもない。
私はフラれてしまった。
「あれ? こんなところに本棚があるんだ?」
驚いたように蒼くんは指を差す。
自分の部屋に置ききれなくなった書籍を客間に置いていた。そこには、漫画から小説から写真集までもが並んでいる。
「おまえ、この小説家が好きなのか?」
蒼くんが指を差したのは、空野奏多という小説家の小説だった。ウェブ小説出身で既に5冊ほど出版しているプロの小説家だ。素性は明かしておらず、
男性か女性かもわからない。年齢も不詳だ。大人気の作家で、超売れっ子だ。この部屋に空野奏多の小説が5冊並んでいる。実は、これは保存用で、部屋には何度も読んだ読書用のものも5冊ある。私はというと、新刊が楽しみな大ファンの一人だ。
「私、小説よりは漫画のほうが読む比率は高いけれど、空野奏多の作品はなぜかドストライクなんだよね。読みやすいし、きれいできゅんとする描写が多いでしょ。蒼くんも好きなの?」
「……まぁな」
「実は、ファンレターも書いたことあるんだけどね。返事はもちろんもらえないけど、読んでもらえたかもしれないと思うと嬉しいよね」
「もらった作家は、きっと嬉しいと思うぞ」
「何、知ったかぶりなこといってるの?」
「なんとなく、だよ。小説家なら応援されたら誰でも嬉しいに決まってるだろ」
「意外なところで趣味が合うんだね。でも、地味、鈍臭そう、タイプじゃないと言われたら、あなたのことは人として大嫌いになったけど」
「すぐ出ていくから、それまでよろしくな」
悪びれた様子はない。鉄の心臓を持っているらしい。
「お前、空の写真集も好きなのか」
本棚を見る。
「きれいな景色を見て、趣味で空の絵を描いてるんだよね。もちろん、あんたには見せないけどね。……あのさ、空の下で、私たち、何か合言葉って言わなかったかな? ずっと思い出せなくて」
「俺にはそもそも記憶がないけどな」
「居候なんだから、私にもっと優しくしなさいよ」
「はいはい、よろしくです」
そう言うと、蒼くんは、おでこを近づけ目をぐっと近づける。
何? どうしてこんなにも至近距離?
「俺、本当におまえのこと好きだなんて言ったかなと思って、まじまじと確認してみたけど、やっぱり、ないな」
なにそれ? こっちは心臓バクバクなのに。どうしてそんなに、普通に冷たい発言できるんだろう。
好きという気持ちは封印だ。蒼くんは変わってしまったんだ。自分に言い聞かせる。
「俺、人を好きになれないのかもしれない。そういう感情になれなくってさ」
「嘘? 小さなときは何回も好き好き言ってきたじゃん」
「信じられないな。俺はおまえみたいな地味で頭の悪い女はタイプじゃないし。ちなみに、うちの高校もギリギリ合格って聞いてるけど」
「そーいう蒼くんはどうなのよ?」
「明日の入学式で新入生代表の言葉を頼まれてるんだけどね」
「ということは、一位で入学ってこと? こんなにちゃらちゃらした雰囲気を醸し出してるのに?」
「一位入学は、いかにも勉強してますっていう雰囲気じゃないとダメっていう決まりはないだろ?」
「そのとおりだけど……」
「羽留。蒼くんのお母さんが帰るから、挨拶して」
お母さんの声がする。
「はーい」
リビングへ行くと、蒼くんのお母さんは不動屋に寄って、すぐに空港へ向かうらしい。
親と離れ離れなんて、私なら寂しいな。でも、蒼くんは特に寂しそうでもなく、手を振っている。
あんなに幼い印象だった蒼くんは自立した大人になっていた。
しかもイケメン秀才ときた。まるで王子様だ。でも、私はお姫様なんかじゃない。
つまり、運命の相手ではないということだ。
「うちの蒼、生意気だけど、よろしくね。本当に羽留ちゃんのことは覚えていないみたいで、ごめんね。あの頃、羽留ちゃんのことを大好きだったのよ。だから、事故に遭って入院したときに、神社に行ってお参りするって走っていったことがあったわ。まだ幼かったから、私が付き添ったんだけど。この町にある記憶を司るって言われている記憶の神様がいると言われていた神社だったと思うわ。まさか、ただのいいつたえだと思うけど、あれから、蒼の記憶は抜け落ちた部分が一部あるような気がするの。悪気はないから、ごめんなさいね」
蒼くんのお母さんはいつも優しい。
「ありがとうございます。私はいまでも蒼くんのことは大切なお友達です。だから、安心して海外へ行ってください」
「物件の方は私が今日、不動産に寄っていくけど、あとは親戚に委託して契約できるようにするから。居候なんてごめんなさいね」
「少しの期間ですし、今まで会えなかった分、蒼くんと過ごせるのも悪くはないですよ」
これは本心だった。半分だけだけれど。正直今の蒼くんと過ごせることが楽しいのかはわからない。
でも、今までの空白を埋められそうな気がする。
お母さんが帰宅すると、蒼くんは自室で荷物の片づけを始めた。
自分の部屋に戻る。なんとなくの違和感が走る。
今まで家着でだらだら過ごしていた自宅。髪の毛もぼさぼさでおでこ全開にしていたけど、これからは蒼くんがいる。
つまり、食事の時も、お風呂の時も、寝るときも同じ屋根の下にいる。部屋は皮肉にも隣同士。
気を抜けない。恥ずかしい姿は見せられない。元々、好みじゃないって言われているけれど、もっと幻滅されないように、自宅でもかわいい服を着て、髪型にも気を遣って、少しでもかわいいかもって思われたい。これは、勝手な独りよがりな願望だけれど、印象をいい方にしたいと思っている。
あぁ、私はこんなにも蒼くんが好きなんだな。好きと嫌いの感情が入り混じる。
外出するほど派手できちんとしていないけれど、部屋着としてもおかしくないけれどかわいい服を選ぶ。
私は毎日こんなことをすることになるのだろうか。
制服から部屋着に着替える。
無難なTシャツとワイドパンツ。
いかにもおしゃれしてますという感じじゃないから平気かな。
部屋着ってほどじゃないけど、まぁこれで夕食は済まそう。
お母さんが腕をふるってくれた夕食の香りがする。
「羽留、手伝って」
台所からお母さんの声がする。
「はーい」
エプロンをして手伝うと、お母さんに言われる。
「蒼くんかっこよくなったわね。お母さんは羽留の恋を応援するわよ。もちろん、蒼くんのお母さんも羽留のことは大歓迎だって」
「顔だけで選ぶわけないでしょ。それに、お互いに選ぶ権利があるわけだし」
すると、うしろからスリッパで歩いてくる音がする。蒼くんだ。
「いつもおいしいごはんをありがとうございます。俺、羽留さんのことは、大好きですよ」
先程とは全く違うことを言う。こいつは、大人の前だと猫をかぶるタイプらしい。
「私のことは、忘れたんでしょ」
「でも、アルバムを見て、俺たちって仲良しだったんだなって少し思い出しました。家庭的で優しいところも羽留さんはいいお嫁さんになりそうですね」
こんなことを言われたら、意識してしまう。
ちらりと見ると、からかっているのが丸わかりだ。
これっぽっちも本気じゃない。
これっぽっちも私のことをいいお嫁さんになるなんて思っていない。
猫かぶり王子様が我が家にやって来た今日は、ちらしずしと唐揚げとジュースで乾杯となった。
「お母さんの唐揚げってすごくおいしいですよね。昔も食べたような気がします」
「そうよ、蒼くん、うちに来るとからあげないのってよく催促されたものよ」
お母さんを持ち上げるのが上手い。笑顔がほころぶ。
お父さんも、途中で会社から帰宅して夕食会に参加する。
蒼くんは大人と話すのが上手い。多分、頭の回転が速く、相手のことを敬った言葉を放つのが上手いのだろう。
私にはいつも意地悪なことしか言わないのに、調子がいい奴だ。
でも、心の中で、蒼くんが隣で食事をしている事実がうれしくて仕方がない自分がいることに気づく。
隣で笑っている蒼くんを見ているだけで心が和らぐ。
幸せってこのことを言うのかもしれないく。
ずっと会いたかった蒼くんがすぐ手の届くところにいる。
夢の中でしか会えなかった蒼くん。
でも、これからは嫌でも毎日会えるんだよね。
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