3人が本棚に入れています
本棚に追加
⽣まれて初めて⼥を抱いた、とボンクラの甥っ⼦から打ち明けられたとき、アタシは、腰が抜けるほど驚いた。⼿に持った⽸ビールを危うく床にぶちまけそうになる。
「あんた、まさか――家庭教師先の家でってことはないだろうね?」
アタシが刑事ドラマ調で尋ねると、ボンクラはうろたえたように答えた。
「え、と……そ、それは、いえない」
いえないって……。ボンクラのくせに黙秘権かよ。だけど、それはもう⾃分の⼝で⾔ってるようなもんだぞ、おい。
こりゃまずい。こいつ、⾒た⽬はともかく、中⾝がボンクラだったことを改めて痛感させられた。この⼿のボンクラは、相⼿の容姿よりも、情にほだされることが多い。おそらく相⼿の押しに流されたんだろうが、仮にそうだとしても――そうじゃなかったとしても!――アタシがこいつに家庭教師のバイトを斡旋したのは事実なんだから、アタシにも責任がある……のか?
「綾乃さん、僕、どうしたらいいんだろ……」
⼤⼥のアタシよりも⼤きくて、百⼋⼗センチ近い甥っ⼦が⼩さく⾒えた。
泣く⼦も黙る下村家の跡取り息⼦が泣き⾔なんてな。それに天下の東⼤⽣だろ? ⾃慢の脳みそを使って考えろよ。つか、やっぱりそうなのか。⼥⼦⾼⽣とヤッたんだな?
「待ちな、康生。まずは飯にしよう」
アタシは台所へ⾏って、チキンカレーを⽫に盛って戻ってくると、テーブル越しにボンクラに出した。
「⾷いながら話そうじゃないか。と、とにかく⾷え」
さすがに⽫を出すとき、⼿が震えた。
「いただきます」
ボンクラはカレーを⼝にして、美味しい、とのたまった。バカ兄貴そっくりの顔つきを⾒て、⼀瞬イラッとしたが、こいつをアタシのマンションに住まわせているおかげで、⽥舎の本家から⾦銭的な援助を受けているのもまた事実だし、⾯と向かって⽂句も⾔えやしない。
で、そのボンクラはカレーを少し⾷べると、どこか呆然とした様⼦で⽫を⾒つめていた。
「あんた、その⼥のことが好きなのかい?」
恐る恐る、尋ねてみた。
「⾃分でもよくわからない。でも僕がそばにいないと寂しいって⾔ってくれる可愛い⼈なんだ」
「⼤⼈になったもんだな、⾝体だけは」
さて、どうする。
アタシは飲みかけのビールを煽った。頭の中に、高坂社長の顔が浮かんでくる。都内にある、⾼級な輸⼊雑貨を扱う会社の社⻑だ。つまり、アタシの雇⽤主。つっても、個⼈事務所みたいなもので、社⻑が⼀⼈で⼀切を切り回している。アタシは社⻑秘書で、留守がちな社⻑の代わりに「⾼坂は、今はちょっと出てますが、⼣⽅――五時ごろには帰ります」などと、電話の相⼿にきちんと伝えるのが主な仕事だ。たまに英語でわけのわからないことを話しかけてくる相⼿もいるが、そのときはもちろん「アイ・キャント‧スピーク‧イングリッシュ」といって、ガチャンと電話を切るのが適切な対応だと、⾃分なりに⼼得ている。あとはテレビを観るか、スマホをいじるか、ファション雑誌を読みふけるのか――それを決めるのは、アタシ次第だ。
で、その社⻑から「下村くん、いい家庭教師を知らないかね」と持ちかけられたのが、半年前のことだ。⼤学受験を控えた⼀⼈娘がいるという。名前は「しおり」。⺟親似で、なかなかの美⼈だと⾃慢していた。そこでアタシは「東⼤⽣の甥がわたしのマンションに同居しておりますので、彼を回しましょうか」と即座に応えた。バイトもせずに部屋で読書ばかりしているボンクラには、うってつけの仕事だと思ったからだ。社⻑に恩を売るチャンスでもある。
ボンクラは当初渋っていたが、「働かざる者⾷うべからず」と強引に説き伏せ、社⻑⼀家が住むタワマンに送り出してやった。そのときはまさか、こんな事態に陥るなんて、考えもしなかったが。
「アタシに任せな。あんたは今までどおり、家庭教師を続けるんだよ。少なくとも、お嬢様が無事に進学するまでは。いいね?」
「でも……」
ボンクラは⾔いよどみ、アタシはたたみかけた。
「でもも、くそもないさ。急に家庭教師を辞めて逃げ出してごらんよ。逆に社⻑から疑われるじゃないか。もしバレたらあんたに責任とれるのかい。親のすねをかじっている⼤学⽣の分際で」
ボンクラはしばらく黙っていたが、やがて、ぽつりと、わかったよ、と⾔った。
「気は進まないけど、綾乃さんがそこまでいうんだったらやるよ。四年近くもお世話になっている叔⺟さんには逆らえないしね。ま、ほかに相談できる⼈もいないし」
「そう。それでいい。⼈間諦めが肝⼼だよ。あんたも早く⼤⼈になりな」
これでよし。
地元での不倫がバレて、煩わしい親戚の⽬から逃げるように上京してきたアタシにとって、今の職場が最後の砦みたいなもんだ。絶対に⼿放すわけにはいかない。すまんな、康⽣。おまえのことはちゃんと⾯倒⾒るからな――東⼤を卒業してここを出て⾏くまでは。
「ひとつ⾔っとく。相⼿からどんだけ迫られても、セックスするのはもうやめとけ。おまえの将来のためでもあるし、ズルズルと関係を持つのは何のメリットもないからね」
「もちろん、そうするよ。僕は綾乃さんとは違うから」
「泣かすぞ、コラ」
すんでのところで、必殺の顔⾯パンチを引き戻した。その代わりに空き⽸を握りつぶしてやった。
最初のコメントを投稿しよう!