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「何してるの、こんなところで」
一学期も終わろうとしていた。練習終わりの杏樹はびっくりよりもぽかんとした。試合が近づいていて、毎日の練習は遅くまで続いていた。その校門の外に小夜子は自転車を停めて立っていた。
「あんちゃんをさらいに来ました」
「わたし、これから帰るところだよ」
「だからさらいに来たんだってば」
小夜子は自転車を押して杏樹の目の前まで来ると、つり目をくりくりさせて笑った。
部活仲間たちは二人をそっとよけて帰っていき、校門には二人だけになった。小夜子は、周りのことは目に入らないようなご機嫌な顔をしていた。美術館に入ったときの何を見てもご機嫌な顔ではなく、何も目に入らない顔。
「乗ってよ」
小夜子が自転車の後ろを見て言った。
「どこ行くの?」
「どこでも」
おまかせあれ、みたいなすまし顔をしている。杏樹はそれを見て急におかしくていたずらな気持ちになった。
「さよちゃん、自転車の二人乗りなんてしたことないでしょ」
「あるよ」
「後ろに乗る方じゃなくて、こぐ方だよ」
「できるよ」
小夜子は言い張る。杏樹はそれを聞いて自転車の後ろの荷台に乗った。いきおいよく乗ったから自転車はぐらりと揺れ、小夜子はハンドルをにぎって押さえた。そして肩越しに杏樹を見て、にま、と笑った。
小夜子も自転車にまたがる。ペダルをぐっとふむと、自転車は重たそうに前へ動き始めた。さらにぐんとふむと風に乗った。校門を離れ、校舎を離れ、自転車は角を曲がって日の落ちかけた住宅街の路地へ進んでいった。
小夜子は夏服の制服姿だった。杏樹は小夜子の白いポロシャツの背中越しに、流れる景色を見ていた。乗せられて運ばれているのに、二人で走っているような気持ちだった。
自転車は住宅街の路地を走っていた。小夜子はペダルをふむ重さをだんだん感じなくなっていた。息があがって、体の中の空気がどんどん入れ替わっていく気がした。
「はい、ちょっと止まって」
急に、どこからか一人の警察官が自転車で追い付いてきて二人を止めた。二人はほとんど同時に振り向いた。
「だめだよ、自転車の二人乗り」
男の警察官は二人が返事をする前に続けて言った。機械的というより、学校の先生のような口調だった。急に止められて小夜子はよろりと自転車を止め、そのあいだに杏樹が荷台から飛び降りた。法律違反ってこと? と思うと小夜子はうろたえた。警察官の表情からはどれくらい深刻なのかわからない。冷静な表情で二人を見ている。
「すみません、塾に遅れそうで急いでいて、それで乗せてもらっていたんです」
口を開いたのは杏樹だった。
「どこの塾まで?」
「駅前の佐々木アカデミーです。今日これから数学の授業で」
台本でもあったかのようにすらすらと話してみせる。普段のおしゃべりがこんなところで役立つとは、と小夜子はあきれ半分、感心が半分というところだった。
「友だちにテキストを貸したままだったので、急いで返してもらいに行ってから塾に行こうとしてたんです」
路地の先にある知らないマンションを堂々と指さした。すると今度はその横で、小夜子がおずおずといった様子で口を開く。
「ごめんなさい。あの、あたしがこの子に悩み相談をしていて」
少しまゆをしかめて小夜子は話す。ほんの少しでもそういう表情をすると、小夜子の顔立ちはすごく深刻に見えるのだ。
「そのせいで遅くなっちゃって、それで、申し訳ないから乗って行ってと言ったんです。すみません」
すらすらしゃべる杏樹に対して、小夜子は途切れ途切れに話す。目をふせて、すごく反省していますというように。
「そう。気持ちはわかるけど、だからといって二人乗りはダメだからね。防犯登録だけ確認させてくれる?」
警察官は二人を交互に見ると、それ以上は追求せず自転車の方に関心を移した。自転車に貼られたシールのこまかい字を確認し、ポケットから出した手帳で何かメモをとる。名前は、と聞かれて小夜子が名乗る。後ろから見ていた二人は、どちらからでもなく無言で顔を見合わせた。杏樹が頬を膨らませてふざけた顔をしてみせると、小夜子はつんとそっぽを向いた。それで二人でこっそり笑った。
「はい、じゃあ確認できたからこれでいいよ。あとはちゃんと歩いて行ってね」
「すみません」
「どうもありがとうございます」
小夜子はしおらしく首をかしげ、杏樹はにっこりと笑ってお礼を言った。
警察官が二人と反対方向に去って行く道を、小夜子が自転車を押して、杏樹がその横に並び、しばらくだまって歩いた。
十歩も歩くと杏樹がくるりと後ろを振り返る。歩きながらくる、くる、と振り返り、それから元気な声で「もういないよ!」と言って、再び自転車の後ろに飛び乗った。
「こぐの疲れちゃった」
小夜子がそんな杏樹を無視して言う。
「じゃ、押してあげる」
杏樹も小夜子の気だるい声を無視し、自転車を降りて荷台に手をそえた。小夜子はしぶしぶ自転車にまたがり、杏樹に押されて再びペダルをふみ始める。すいすい、と自転車がすべり出したところで、ぐ、と力が加わって、後ろに杏樹が乗ったのがわかった。
「なぁんだ、ここかぁ」
最後の曲がり角を曲がると、杏樹は小夜子の後ろで声を上げた。自転車は静かにたたずむ美術館の前にすべりこんだ。夕暮れの庭の木々は、昼間よりさらに濃く深かった。
閉館時間を過ぎて門は閉まっていたけれど、横の植え込みに体を入れるとすきまから入れてしまった。
「さよちゃんよく不法侵入してるの?」
「そんなわけないじゃん、初めてだよ」
小夜子はそう言いながらもすずしい顔で庭を進んでいく。さっきあんなにか細い声で警官に答えていたくせに、と思うと杏樹はおかしい。草をふみしめて歩くと木のあいだを抜け出た。湿った草木の匂いに包まれ、どこかで虫の声もする。昼間より暗い分、匂いや音が強く感じられるのかもしれない。
二人でベンチに座った。制服でもジャージでもここに来るのは初めてだった。初めてで不法侵入だとは。杏樹はおもしろくなっていたし、小夜子がすました顔で内心は楽しんでいるのも伝わっていた。昼間は優しく木陰になっていた木の枝は、日暮れの空の下では二人におおいかぶさる影のようだった。それが二人きりでいることをより心強くさせ、より秘めやかにしていた。
「ここ、ときどき来ようよ」
杏樹がそう言った。
「次は二人とも自転車ね」
小夜子がわざと疲れた声で言った。
「高校生になっても来たいな。働いても、結婚しても、おばあちゃんになってもずっと一緒にお茶しよう」
「一生の約束なんてしても、おばあちゃんになったときのことなんてわかんないじゃん」
小夜子がつぶやいた。
「いいの。それでも」
杏樹はきっぱりと言い返す。
「ほんとに一生と思えなくてもいいの。一生って言えるくらいの相手がいるってことが大事でしょ」
「そう言うならほんとうにそう思っててよ」
思えなくてもいい、と言われたことがいやで小夜子は言い返した。杏樹には天使のように純粋に一生と思っていてほしかった。
「じゃあ思ってる」
杏樹はすんなり答えると姿勢を正して、
「さよちゃんとわたしは、一生友だちです」
とアナウンサーみたいにかしこまって言った。うん、と小夜子はただ大きく頷いただけだったけど、杏樹をまっすぐに見ていた。
「じゃ、契約成立ね」
遊びの約束でもしたみたいに杏樹が言った。
「なんの契約?」
「友情の契り」
杏樹はどこかで覚えたばかりみたいな言葉をぎこちなく言った。思わず小夜子は笑う。
「その言葉、映画で聞いたことある。悪魔と魂を引き換えに交わすやつだよ」
悪魔じゃないよぉ! と杏樹は小夜子の肩を叩いて笑った。小夜子もまた笑って、黒い豊かな髪がふわふわと揺れた。杏樹の髪は薄い灯りに照らされて薄く茶色に透けた。
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