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マクドナルドを見かけるのは、二度目だった。
いくらなんでも流石におかしい。いや、方向音痴なのは認めよう。
駅から徒歩三分のビルでの用事を済ませて、来た道を戻ったつもりだった。目と鼻の先にあったはずの地下鉄の乗り場が見つからない。目印の交差点に向かって歩いていたはずなのに、地下鉄入口の階段があるはずの場所には、英会話教室があった。
おかしい。踵を返して、戻る。
歩いた分だけ戻ったはずが、今度はさっき出てきたばかりのビルに辿り着かない。妙に人通りの多い歩道を歩いていたら、頭に何か当たった。足元を見ると、煙草が一本落ちている。誰かが今通り過ぎた建物から捨てたのだろう。いや、捨てたというより、投げつけられたという感覚があった。危ない人かもしれないので、睨みつけたいのを堪えて素知らぬ顔をして先に進んだ。
この辺りだろうと、信号についた表示を見上げると、てんで見当違いの場所にいる。
道の端に案内板を見つけて近寄ってみた。
地下鉄の入り口は、対角線上に真逆にあった。どうしてだか、わからない。そもそも、そんなに歩いただろうか。
スマホの地図アプリを起動して、方向を確認する。
現在地を示す青い丸と進むべき方向を指し示す青の扇は、正しい道を教えてくれる。スマホのバッテリーがもう残り少ないので、アプリは閉じた。真っ直ぐ行って、左だ。
青になったばかりの信号を渡る。
人の波が僕を呑み込み押し流されるが、問題ない。
前に来た時に、こんな店があっただろうか。そもそももう、このまま一駅分を歩いてしまった方がいいんじゃないか。だが、ここをまっすぐ行った先にあるのは、帰り道とは逆の駅だ。しかも路線が違うので乗り換えなければ帰れない。なんだか勿体無い。だから、やっぱり地下鉄の駅まで戻りたい。
信号を渡り終えた先には、有名なたい焼き屋があった。少し心を惹かれたが、そんなことよりも帰りたいのだ。横目で眺めながら先を急ぐ。
急いだ先に、マクドナルドがあった。
おかしい。どう考えてもさっきのマクドナルドだ。三度目だ。
絶望を感じて辺りを見回す。
人はたくさん歩いているのに、どうも、何か違和感がある。
よくよく人波を見て、慌てて目を逸らした。周りを歩く誰も彼もが、顔が酷くぼんやりしている。ぼうっとしているのではない。肌色がぼやけて、目も鼻も口も茫と滲んでいるのだ。
ここに至ってようやく気づいた。
僕は、堂々巡りをさせられている。
何がどうなっているのかわからない。
だが、戻りたくても戻れそうにない。
こういう時は、煙草を吸えばよいのだと、祖父に聞いたような気がする。煙草の煙を妖が嫌うのか、落ち着いて時間をやり過ごせ、という意味なのかは知らないけれど、足を止めて一服すれば元の道に戻れる。
だが、世は禁煙や嫌煙がスタンダードだ。電子タバコでも有効なのかは怪しいし、そもそも僕には吸う習慣がない。僕は愕然とした。さっき投げつけられた煙草。あれを、拾っておけばよかった。だが、拾ったところで、ライターがない。
ふと横を見る。
通りの一本向こうに、長い階段があり、その上に神社があった。あそこに行けば、火があったかもしれなかったのに。いや、神社に行けば、この奇妙な事態を打開できるかもしれない。
足先を向けかけて、躊躇った。
顔の滲んだ人々が、諾々と列をなして階段を登っている。左右にゆらゆらと揺れながら、危なっかしく連なって、鳥居の向こうに呑まれていく。
ここ数年、失踪者が増えているというが、不況や高齢者が増えたばかりではないのかもしれない。
煙草を持っていなくて、同じ道をぐるぐると回り続けた末に顔を失くして彷徨っている人が、大勢いるのではなかろうか。
階段を上がっている人々がゆらりとこちらを振り返るその視線を逃れて、僕は駆け出す。
ばたばたと走る先の路地に、小さく赤い火が点る。あれは向かいの婆様だ。
いつも草臥れた猫を膝に乗せて、寝ているのか起きているのかわからない。婆様の猫と僕は仲が悪い。あいつは僕を見るたび、いつも、しわがれ声でシャアっと噴いてみせる。
「ぼさっとしてんじゃないよ」
聞いたこともない声で叱り飛ばして手招く婆様に走り寄ると、細くてしわしわの手で首根っこを掴んで引っ張られた。たたらを踏んで婆様にぶつかる。痩せた身体は猫臭い。
咥え煙草の婆様が、僕にふうっと紫煙を吹きつける。苦いような渋いような匂いに咳き込む僕を引っ掴んで路地の奥に踏み出す。足が追いつかずに、路地から通りの向こう側に転がり出た。
はっと見渡せば、目の前には地下鉄の入り口が暗い階段を伸ばしている。
ここだと狼煙を上げるように、火のついた煙草が転がっているが、婆様はいない。
階段の下から、にゃあご、と濁った声で古い猫が鳴いた。
僕は帰り道で、煮干しを買って帰ることにした。
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