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まだ日が昇る前の道のりは街灯の光のみで照らされている。西の空には沈みかけの月が山の谷間に見え隠れする。
250ccバイクは夜明け前の澄んだ空気の中を快調に走っていく。
後ろに乗せた真奈美は騒ぐかなと思っていた――実際初めのうちははしゃいでいた――けど、今は俺の腰に手を回したまま静かにしていた。声をかけるのも躊躇われて、ただエンジン音だけが町と海の境界線に響いている。
真奈美は物覚えが付いたころには家族同然の付き合いをしていた幼なじみだった。俺の親父の影響で俺が中学に入る前くらいから真奈美とともに居合道を始めた。
多分、親父は俺にも期待してくれていたと思う。それに応えるように俺は大会でも結果を残したし、順調に上手くなっている自覚があった。そんな自信を徐々にこそぎ落としていったのは、今後ろに座っている真奈美だった。
初段に合格したあたりから、真奈美はメキメキと上手くなっていった。それは単純な技術ではなく、周りの人々を魅せる何かを持っていた。俺が高校三年生のとき、真奈美が一年生として入ってきて居合道部で真奈美の剣を見たとき、既に真奈美が自分を越えていることに気づいた。
だから、夏になって居合道部を引退して、親父との稽古も受験勉強を理由に休むようになって、どこかホッとしたんだ。ずっと追われてたものから解放されたような気になった。
もっとも、そんな気持ちで臨んだ受験勉強には身が入らなくて、結局第一志望を落ちて滑り止めの大学に入学することになった。
「そうだ、真奈美。模試A判定って言ってたけど、どこの大学?」
「……ひみつ」
後ろから聞こえてきた声の雰囲気に、どこの大学を目指してるかわかってしまった。
別に自分の大学が悪いところだとは思わないけど、真奈美の前の道にはもっと可能性が広がっているはずだ。
「勿体ないだろ。真奈美なら熊大でも、ワンチャン九大だって狙えるだろ」
「別に、偏差値で大学選んでるわけじゃないから」
真奈美の言葉はそれとなく俺の胸を抉ったけど、小さく息をついてその痛みをやり過ごすことにする。
真奈美が静かだと何となく調子が出ない。真奈美は今でも朝稽古なんかをしているはずだからこの時間だからって眠いことはないはずだし、どうしたんだろう。
一度途切れた会話を再開させるきっかけを見つけることができないまま、目的地に着いた。普段は結構人が多いと聞いていたけど、時間が時間だからか駐車場にバイクを滑り込ませても人の気配はない。
バイクから降りた真奈美は不思議そうな顔で辺りを見渡す。ここは干潟沿いに広がる漁港の端で、ただ波の音が広がるだけの何の変哲もない場所だった。
キョロキョロとする真奈美の背中をポンと押して海の方へと向かう。ポツポツと街灯の光が夜明け前の空を照らす。
その光は海沿いではなく、海に向かって真っすぐ伸びている。
東雲色に染まる空と海。空と海の境界は溶け合ったかのように曖昧で、静寂の世界に静かに波の音だけが漂う。
ポツリポツリと海の中から空に向かって電柱が伸び、曖昧の世界を朧気に白い光が照らしていた。
そして、水面から微かに高いところを車一台半分くらいの道が海に向かってどこまでも続いている。
「すごい……」
ほうっと真奈美からため息が零れた。
一歩、二歩と海に伸びる道に近づいたかと思うと、そのまま一気に駆け出していく。
「すごいよ、お兄ちゃん! 海の方までずっと道が続いてる!」
まだ海水が残る道を、いつもの調子に戻った真奈美が走っていき、その後を歩いて追う。
ここは夜と朝の境界であり、海と陸の境目だった。そんな曖昧で幻想的な世界を貫くただ一本の道を真奈美と歩いていく。
この場所で真奈美が刀を振る姿を見てみたいと、ふと思った。この世に神様なんてものがいるのなら、この静謐な場所での演武はきっと捧げものとして十分だ。
「この道、どこまで続いてるのかな?」
「あと半分くらいじゃないか」
「うへえ。そもそもこの道って何の道なの?」
半分くらいまで道を進んできてからそれを気にするのも真奈美らしいと思う。真奈美にとって、理屈みたいなものは後からついてやってくる。まずはフィーリングのままに足を踏み入れたと思ったら、それでスイッスイッと進んでいく。
「長部田海床路っていってさ。この辺は干潟で貝とかがよく採れるらしくて、干潮時には漁業用に使われてるけど、満潮時には海に沈むんだ」
「ふーん、生きてる道なんだ」
生きている道、と言葉が今も本来の目的に使われていることを差しているのか、海の干満で浮き沈みすることなのかはわからなかった。
ふっと真奈美から視線を外して道を挟む海を眺めてみる。日がゆっくりと上っていき、海が蒼さを増している。
地元の人が意外と地元の観光地を知らないという話に倣って、俺もこの道を知ったのは二年前のちょうどこれくらいの時期だった。
受験勉強に専念して居合から離れていく中、親父が気分転換にと連れて来てくれた。全く刀を振らなくなった俺に対して言いたいことは色々あったはずなのに、親父は居合には一言尾触れる事無く海床路の端まで黙々と歩き続けた。
居合の時は厳しい親父だけど、決して居合をやれと言ってくることはなかった。
「私ね、お兄ちゃんの剣、好きなんだ」
また数歩先を歩きだした真奈美がくるりと振り返る。
「もう真奈美の方が俺よりも上手いだろ」
「ううん、私にはお兄ちゃんみたいな剣を振ることはできない」
真奈美は前に向き直り、後ろ手を組んで道の縁をゆっくり進む。
「お兄ちゃんの剣はどこか荒々しい力強さがあって、見ている人の息を呑ませるの。知ってる、お兄ちゃんの剣、どんどんおじさんに似てきてたんだよ」
思わず、足が止まる。
俺の剣が、親父に似てきた? まさか。
親父の剣は遠すぎて、そこにいたる道はどれだけ長く険しいんだろうと、いったいどこまで進めば並べるのだろうと気が遠くなるばかりだった。
「だから、お兄ちゃんの剣をもう一度見たいって、一番思ってるのは私じゃないんだけどね」
真奈美の声はさざなみの間を揺れて胸の奥底の方まで入り込んでくる。
親父は、俺が居合から離れたことについて一言も触れることはない。こうやって帰省してるときだって、朝から黙々と一人で稽古をしてるけど、それについて俺に何か言うことはなかった。
それはありがたいと同時に、諦められるんだろうなって思ってたけど。
鞘に収められた刀をぐいっと前えに進みながら横一文字に抜き打つ。居合道で一番基本となる型。
まるで、自ら道を切り開くような――
在りし日の刀を振る自分の姿は、「あっ」という真奈美の声とともに現実に引き戻されて消えた。
「うーん、この先には何があるんだろうって思わせといて唐突に終わるなあ」
10分くらい歩いてきただろうか。海の中を走る道は何の余韻もなく終わりを迎えた。
道の途中で横に切断されたようにそこから先は海が広がっている。
「そりゃあ、漁業用の道だからな。必要があるところまでしか伸ばさないだろうよ」
「えー、このまま島原まで行けそうだなって感じだったのに」
「そこまでの道だったら、もっと有名になってるだろうさ」
帰ろうと振り返る。海床路の街灯にはまだ明かりがついていたけど、その光が霞むくらいには辺りは明るくなっていた。
一本の道を進んで、遮られて、来た道を戻る。
それは極々当然のことだけど、不意に今の自分に重なって見えた。
刀を振れるようになった頃から居合を始めて、行き詰まって道から外れたら、そこには何も残っていなかった。
「実は海底トンネルみたいなのが続いてたりしないのかなー?」
まだ無邪気に道の先を見ているらしい真奈美の声。
「そんな夢みたいなこと、あるはずないだろ」
振り返ってみると、真奈美がこちらを向いて笑っていた。
背後に太陽を背負い、真奈美は笑って俺を見ていた。
「わからないよ」
「いや、何言って――」
「海底トンネルっていうのは言い過ぎかもしれないけど、一度脇道に逸れたって、下道に降りたって、道はどこまでも続いてるって私は思うな」
朝焼けの逆光に照らされた真奈美は眩しくて、じっと見つめていたら火傷してしまいそうだった。
「だってお兄ちゃんは、わざわざ居合道部のある大学を選んだんでしょ。だから私はお兄ちゃんの剣が見られるの、ずっと待ってるから」
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