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バラの香りを忘れた道で
「おはようございます」
道の脇の花壇の草取りをしている女性が僕に会釈する。
最初に見たのは初夏のころ。
草取りをしている高齢の女性かと思ったのだが、これがどうして、かなり若い。
35になる僕よりも若いのではないか。
女性と同じように頭を下げて
「おはようございます。バラの香りが甘くていいですね」
と僕は通り過ぎた。
週一回いつもの月曜の朝の風景。
*
しかし今日の月曜は何かちょっと違った。
花壇は草が生えっぱなし。
そろそろ草も多くなる季節だから、力をいれて草取りをしているものと思っていたが、女性本人もいない。
僕は足を止めて、あたりを見回した。
やはり姿は見えなかった。
女性の家はわからない。
週一回、挨拶だけのおつきあいなので。
気にはなったが出勤途中ということもあり、止まってはいられなかった。
しかも顔を認識されているかどうか微妙なくらいの僕だ。
待つことも、何かメッセージを残すことも怪しすぎる。
僕は苦笑して再び歩き出した。
*
翌日の火曜は、通常会わない曜日。
僕は少し早めに──30分ほど早く──その花壇にたどり着いた。
女性はいなかった。
かすかに期待をしてはいたのだが、やはりいなかった。
もしかしたらそのうち、この道を彼女が通るかもしれない。
僕は持ってきたビニル袋から軍手をだして草を取り始めた。
ここの町内の人間ではないけれど、普段から通っている道だ。
好奇の目で見られることはあっても、草取り自体は迷惑でもないだろう。
もしかしたら違う曜日でも、彼女がくるかもしれないし。
そうしたらなんと言おう。少し胸が高鳴る。
けれどそのまま何事もなく30分がたった。
出勤時刻に支障がでるため僕は諦めて軍手と草をビニル袋にいれ、ぎゅっと口を縛った。
大きなため息もビニル袋に詰めて。
*
毎日草が生えてくる花壇。道沿いにあるから気になるもので。
いつのまにか僕は習慣のように毎日草を取っていた。
しかし彼女はこない。消えてしまった。
僕と入れ替わるように。
どうしてしまったのだろう。
考えながら草を取っていると声をかけられた。
「おはようございます」
この町内の人だろうか。もちろん見知らぬ人。
その見知らぬ女性が僕に声をかけて通り過ぎる。
まるで少し前の僕のように。
花壇に植わっているのはピンクと赤のバラ。
女性と香りだけに気をとられ花まで気にかけていなかったのだが、普通のバラよりも小さな花で、寄り集まってまるでブーケのように咲くバラだった。
ただ、道を通っているときは香りがすごいと思っていたのに、草を取って花の世話まで始めてみると香りがしない。
鼻がおかしくなったのか、僕の世話が足りずに香りがきえてしまったのか。
おかしくなってもう一ヶ月が過ぎようとしていた。
ふと気がつく。
いつのまにか草取りをしていた彼女のことを思い出さなくなっていることを。
何のためにこの花壇と付き合い始めたのだったのかな
*
「おはようございます」
毎日草を取っている僕に声をかけてくれるようになった女性がにこりと笑った。
僕が草を取りながら会釈をすると
「バラがかわいいですね。いい香り」
と続けてきた。思いついて、聞いてみる。
「バラの香りがしますか? 僕、香りがわからなくて」
「ええ、すごく甘い。こんなに香るのにわからないですか?」
驚いた顔で僕に返してくる。
やはり鼻がおかしくなっているのだ。
耳鼻科にでも行こうか。
少しゆっくりしよう。
明日有給をとって休もう。
*
悪いことは重なるもので、僕は耳鼻科に行っただけなのに、耳鼻科の入り口で滑って転んでしまった。運悪く足を捻挫。慌てて地面についた手首はヒビが入った。
耳鼻科に行っただけなのに。
肝心の鼻は問題なくて、詰まってもいなかった。
でも手足の具合がよくないので、翌日から有給で一週間休むことにした。
たまりにたまった有給もこんなことでもなければドブに捨てていくだけだ。
せっかくだからゆっくりしよう。
足も手も使えないのでは仕事にならないと、上司も渋々納得してくれた。
一週間経って歩くことはなんとか通常に戻ったのだが、手はまだなんともならず。
朝の出勤は駅からタクシーをつかったりバスに乗ったりし、すっかり道を変えてしまった。
*
新しい道に変えてよかったことがある。
なんと後輩の女子社員が同じ経路をつかっていたため、よく話すようになったのだ。
今までの道では考えられなかった。
今まではどうしていたっけ?
よく思い出せない。
「おはようございます」
その言葉を聞くとはっとしてしまうのは何故だろう?
道すがら、バラの香りがするとつい振り返ってしまうのは何故だろう?
よく思い出せない。
*
「先輩。先輩が前に通ってた道をここ一週間くらい用事があって通ってるんです。バラがすごいですよ。たくさん植わっていて、除草もされててすごくきれい。いい香りなんですよね」
後輩が楽しげに口にした言葉がやけに心に残った。
その翌日から、後輩と朝の出勤で一緒になることはなくなった。何故だろう。バラの棘にでも触れてしまったのだろうか。
僕は一人で出勤している。
バラの香りも、花壇もない、新しい道を。
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