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木曜日
《木曜日》
「おはよう、ツキ」
洋平が声をかけたがツキはサークルに置いてあるカゴ型チモシーベッドから出てこない。手を出そうとすると洋平に向かって
「グッググッ」
と低い音を発して威嚇してくる。
洋平は床すれすれまで身をかがめて、中を覗くと、尋常ではない量のツキの抜け毛がカゴいっぱいにあった。様子がおかしい。
二十四時間対応の動物病院に行こう、と洋平は即決し、大至急、行動する。
早朝でもあり、園谷はまだベッドでいびきをかいている。
うさぎを診てもらえる動物病院は少なく、ここからだと往復のタクシー代と、レンタカー代が同じくらいの料金になる。洋平は迷わず自由のきくレンタカーを選んだ。
近所のタイムパーキングに配車しておいてもらえるようにアプリで手配する。
ペットシートを多めに用意して、ツキをカゴごとキャリーバッグの中に、慎重に移動させる。
診察券を確認して、いつでも出られる準備をし終わったタイミングで、パーキングに車が到着したお知らせが携帯に表示された。
園谷が起きてくると厄介なので、洋平は静かに玄関ドアを開けて出発した。
動物病院の駐車場に洋平はレンタカーを停めた。
そろそろ上司が起きる時間だろう。
午前中、半休取る旨をメールする。すぐに返信がくる。
『今日の午後はミクモス重工とのクロージングなので間に合うように出社してください』
忘れていたわけではないので
『わかりました』
と返した。
洋平はキャリーバッグを持って院内に入り一階の受付の読み取り機械に、診察券を通して二階に昇り、待合室の空いてるソファに座った。
ソファには洋平と同じようにキャリーバッグを膝に抱えた人や、不安そうに待つ人が六名ほどいた。
ソファの向かいには診察室が三部屋ある。常時、獣医が三名いて、次々にペットの名前が呼ばれ中に入っていく。
カルテを持った獣医が
「加苗さーん、加苗ツキちゃーん」
と声をかけてくる。
洋平は真ん中の診察室へ通された。
診察室に入るとツンとした動物の尿の臭いが鼻を刺激した。清潔にしているがアンモニア臭は、もう診察台に染みついているのだろう。
キャリーを診察台に乗せた洋平に確認を取って、獣医がチモシーベッドのカゴから慣れた手つきでツキをそっと出す。
抜け毛がごっそりツキの体に纏わりついていて、獣医がそれを綺麗に取り除く。
「あー……おなかの毛が全部抜けてますね、皮膚も少し傷ついてしまっています。皮膚病の可能性があるので、皮膚表面の菌の採取と、ホルモンバランスが崩れているかもしれないので、血液検査をしますね」
ツキの足の毛をかきわけて獣医が血管を探し
「ちょっとチクっとしますよー」
ツキに話しかけて採血する。腹が剝き出しになった皮膚に長い綿棒みたいなものを、優しく滑らせた。
「はい、ツキちゃん、よくできました。結果が出るまで待合室でお待ちください」
待合室で二十分ほど待たされて、また呼ばれた。
「検査は異常がなかったので、ストレスが原因の自咬症だろうと思います。人間でいうと自傷行為ですね。よく観察して原因を改善していくしかないですね。
毛が生え揃うまで小さいエリザベスカラーを装着しますので、様子を見てください。皮膚の傷は、こんな感じで、消毒して保護シートを貼って、汚れたら取り替えてあげて」
ツキのはげた腹で、獣医が洋平にシートの貼り方を見せる。
「もしも自咬症が悪化するようなら、またご相談くださいね。あまり大きな衝撃を与えないように静かな環境作りをしてあげて。あ、エリカラつけますね」
ツキの首に巻いて獣医は
「はい、今日はもう大丈夫ですよ、スタッフが呼ぶので待合室でお待ちください」
そう言われてスタッフに会計を支払い、動物病院を後にした。
レンタカーを、自宅マンションの近所のタイムパーキングに駐車した。
動物病院から帰宅しても、園谷は酒を飲んで寝ていた。
ベッドの下の床には空缶が見えている。
午前十一時半を回っているが、園谷は毎日こんな自堕落な生活を満喫しているのか。
食べて、酒を飲んで寝ているだけで、一向に再就職先を探している気配など、一ミリもなかった。酒代も洋平を当てにをし始めていて、それを当たり前なことにしつつある。
ツキをサークルにそっと降ろして、見守りカメラの不審者通知機能と室内マイクをオンにした。
洋平の出勤中に、園谷がツキに何かしているのかもしれない。
後ろ髪を引かれたが、今日は大事な契約がある。
洋平はレンタカーで急ぎ会社に出勤した。
ミクモス重工との契約締結を終えて上司と別れ、直帰するためレンタカーの運転席に洋平が座ると、内ポケットに入れていた携帯が震えた。見守りカメラからの通知だった。
タップするとツキの部屋に、昨日、洋平が追い出したはずの桃崎を中心にして、園谷と、さらに洋平が知らない男が二人ふえていた。
男たちは輪になって、ぐるぐると踊っている。中心にいる桃崎の手は、ツキの耳を掴み高々と掲げていた。
桃崎の張上げた声を室内マイクが拾う。
洋平の携帯から、桃崎の宣言が高らかに響てくる。
「これより兎狩りを開始する!」
桃崎を中心に回っていた、園谷と他の二人の男たちが
「うぉお!」
と雄たけびを上げて盛り上がる。
パッと、桃崎がツキの耳を放し、ツキが床に落ちた。
震えて固まるツキの耳元で、桃崎がパチンと両手を叩き大きな音を立ると、驚いたツキが闇雲に駆け出た。
部屋中をメチャクチャに走り、狭い隙間に隠れようとしていたが、エリカラが邪魔をして逃げられない。ツキが鳴いている。
四人の男たちは、ツキを追い立てゲラゲラと笑っていた。
洋平は怒りを通り越して吐き気がする。
ツキがパニックを起こして逃げ回るさまを、桃崎たちと一緒になって楽しげに笑う園谷の表情を見て、洋平は手のひらに爪を食い込ませて拳を硬く握った。
胸糞悪い映像を、観ていられなかった。
洋平はペットと泊まれるホテルを探し始めた。
レンタカーを返却しなくて本当に良かった。
ホテルの予約をしてから車のエンジンをかけ、なるべく早く、と気が急いて、園谷に乗っ取られた自宅マンションへと車を飛ばした。
車を駐車して、マンション前の私道を歩きながら、落ち着かない荒い息と感情を整え洋平は、完全に園谷に乗っ取られた自分の部屋の玄関ドアを開けた。
煙草の煙が充満している。
四人は洋平に気づくこともなく、祭りにはしゃぎ疲れた子供ように眠っていた。
部屋の空気にライターで火をつけたら、燃え上がりそうなくらい、アルコール成分が充満していそうだった。
空缶で足の踏み場がない。その空缶には煙草の吸殻が溢れている。
洋平は園谷を揺すり起こした。
寝ぼけているのかブツブツと何かを言っている。
沸点を過ぎた怒りが洋平の中でゆっくりと体に染み込んでいく。
そうか、こいつは中身が中学生のまま歳だけ無駄に取ってしまった子供のなれの果てだ。
「あ、おかえり加苗くん」
しょぼしょぼした目で園谷が悪びれもせずに言う。
洋平は帰り道、車中で練習してきた言葉を優しく口にした。
「今日は大きな契約が取れたんですよ、俺。金一封もらいまして、先輩たちにもお祝いのお裾分けです」
と茶封筒を園谷に渡した。無造作に封筒を破り、中の高額紙幣の枚数を数え
「いいの? これ貰っても?」
園谷がバンバンと洋平の背中を叩く。
「はい、四人で外食でもしてきてください」
「え、加苗くんは行かないの?」
殊勝なことを園谷が言ってくる。洋平はにっこりと笑顔を作った。
「俺は着替えて、これから上司に寿司を奢ってもらうんです」
もちろん嘘である。
「先に四人で外に行ってください。俺はあとから戸締りをして出ますから」
穏やかに言うと洋平は、他の三人を起こした。
自分は、怒りが湧いているときほど、冷た冷たい笑顔を作れる人間なのだと知る。
軍資金を持たせてもらった四人は、浮かれた足取りで外へ繰り出していく。
四人が部屋を出ると洋平は鍵をかけて、ツキを探した。
ベッドの収納の手前で震えている。
「大丈夫」
そっと手を伸ばしてツキをキャリーバッグに入れて、洋平は散らかった部屋を眺める。
さようなら。
鞄とキャリーバッグだけを持ってマンションの外に出た。
「始めから捨てておけば良かった。選択を間違えた」
誰にも聞かれない独り言を言って、洋平は私道を振り返らずに通り過ぎ
「もうここには戻らない」
誰もいなくなった暗い部屋の窓を見上げて、かつての自分に、言い聞かせた。
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