1.橘みずほの朝

2/3
前へ
/10ページ
次へ
幼稚園児のころから先月まで健ちゃんと呼んでいたのに、入学したその日『健ちゃんと呼ぶな、健二郎と呼んでくれ』と言われた。恐らく子供っぽいから嫌なんだろう。そんなの気にしなくて良いと思うんだけど…… 「分かったよ」 教室に入ると先生が来るまで皆、おしゃべりをしていた。女の子は鏡を持って一生懸命前髪を整え、健二郎をはじめ男子はちょっと悪ぶりながら机の上に座って。 みんななんで急に色気付くんだろ。こんな田舎で。俺はここが嫌いな訳じゃない。健二郎は卒業したら東京の大学に行くんだと鼻息荒くしてたけど。 変わりたいような、変わりたくないような。自分でもよく分からない感情。チャイムがなりみんな、慌てて席に戻る。窓側にある僕の席からは、初夏の眩しい空が見えていた。 「あれ」 翌朝、油揚げを神社に持って行った時ふと気がついた。いつもなら前日の油揚げがお皿の上に残っている筈なのに、姿がない。動物が食べてしまったのだろうか。 (猿でも出たのかな) それなら注意しないと、奴らは人間に出くわしたら襲ってくることがある。つばめによくいいきかせないとあいつは猿にちょっかいだしそうだしな……。 そんなことを思いながら、新しい油揚げをお皿に置いて拝んだ。だけど油揚げがなくなったのはその日だけではなかった。三日連続でなくなったり、一日おきになくなったり。一ヶ月くらい経過するともう前日の油揚げの姿は毎日見ることがなくなっていた。 (よほど油揚げがうまいのかな) 猿は雑食と聞いたことがあるけど、油揚げを好んで食べるものなのだろうか。油揚げだと狐のイメージだけど、狐なんていないし…… そんなことを思っているうちに、高校生はじめての夏休みに突入した。 玄関の引き戸を開く音が聞こえ、つばめがものすごい勢いで走っていく。 「のぞみ兄ちゃん、お帰り!」 上機嫌な声と笑う声。俺も玄関に行くと、そこにはシャツ姿の兄貴、のぞみがいた。 盆休みに合わせて帰省してきた兄貴は手にしていた大きな紙袋を俺に手渡す。中身はお土産だった。兄貴の腰にはべったりとつばめが抱きついている。あいつ、いつも俺には甘えないくせに。 「ただいま、おっ。みずほ、お前背が高くなったなあ! 生意気な」 「成長期だからね」 大笑いしながら兄貴は靴を脱いで廊下を進む。太陽のように明るい兄貴。我が家のムードメーカーなのだ。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

60人が本棚に入れています
本棚に追加