【怪談】おりん

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 仏具に用いられるお(りん)は,錀という字で現すこともある。このお椀のようなお鈴は鈴台に乗せられ,鈴棒によってお経の間に鳴らされる。かつては座禅を行う禅宗などの宗派で用いられていたが,現代では多くの宗派に取り入れられている。  一般的なお鈴は銅と亜鉛の合金で,銅と錫を使ったものもあり,お鈴が響かせる甲高い音はその場の空間を清め,周囲に漂う邪気を払うとされている。  そしてその音は,魂を極楽浄土に届ける力があると信じられてきた。  毎年夏休みになると,父方の田舎に里帰りし先祖の墓参りをしていた我が家で起こった話である。  当時まだ子供だった自分と小学校に入る前の弟は両親に連れられ,田舎のお寺を法要のために訪れていた。  昔からよく知るお坊さんがお寺の窓を全開にして,大きな扇風機を回して外の空気を室内に入れた。当時はそれで十分涼しいと感じていたし,空気も今ほど湿気がなかったように思う。  やけにふわふわした畳の上に椅子が並べられ年寄りたちが黙って座ると,自分と弟は会ったことのない年配の親族たちを警戒しながらお坊さんがお経を唱える様子を観察していた。  お経の合間合間にチーンという甲高い音が聴こえると,窓を全開に開いた部屋の空気を細かく揺らした。  自分以外にもその場にいた子供たちにはその空気の揺れが見えていたに違いない。当時,このお鈴の甲高い音がする度に幼い弟は両手で耳を覆って嫌そうな顔をした。  汚れのない甲高い金属音が周囲の空気を揺らす度にお坊さんの声の向こう側で唸り声のようなものが聴こえ,子供たちは誰よりも緊張して事前に親から渡された数珠をしっかりと握りしめた。  何度目かの金属音が部屋の空気を揺らしたとき,子供たちの視界の端に黒い猫のような影がそっと窓から外で出ていくのが見えた。  毎年,その影を見ると「ああ,今年のお盆も終わったな」と子供たちは皆安心したが,そのことを共有することはなかった。  それはお寺のお坊さんからお鈴の音が鳴っているときに何かが出てきても,そのことについては人に話してはいけないと物心がつく前から教えられていて,誰もがその教えを守っていたからでもあった。  いつの間にか自分も大人になり,そんな話を忘れていた頃,病気のために五十代で亡くなった親戚の葬儀に参列した。久しぶりに聞いたお鈴の音が幼かった頃の記憶を蘇らせ,その瞬間,お坊さんの影から楽しそうに走り出して窓から外へ飛び出してゆく子供の姿をした従兄弟の姿が視界の端に映り込んだ。  楽しそうに笑う従兄弟が窓の外で振り返った瞬間,空気を揺らす甲高いお鈴の音が自分の死期もそんなに遠くないと教えてくれたような気がした。
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