第6話

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第6話

 ついに蛍輔との授業が始まる。  前回の帰り際に互いの携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。満からの提案だった。どうやら蛍輔は放課後は渋谷駅のどこかで満を待ち、姿が確認出来なければ今日の授業はなし、と家庭教師業をけむに巻くつもりだったらしい。 「まったく、勉強見てやるくらいならいいって言ったの誰だよ。ちゃんと待ち合わせ場所は決めておこうな」 「チッ……」 「舌打ちやめろよぉ……」 「業務連絡以外では使用しないでください、お友だちではないので」  さもしぶしぶ了承してやったのだという顔。  お友だちではない。友だちになりたいと言ったのは自分で蛍輔には断る権利がある、実際、拒否の言葉をすでに聞かされてはいるもののやはり少し悲しいと思ってしまう。  あの日カラオケ店でなんとか蛍輔を引き留めようとして咄嗟に出た言葉。先生になってほしいのではない、友だちになりたいと、深くやさしい繋がりを彼に求めてしまった。 「お友だち……になるのは、これからだし。お友だちになっても用もないのにメールは送らないさ」  満とて不必要なメッセージを送る質ではないのだ。  とは言え、クラスメイトと連絡先を交換するのはこれが初めてだった。  携帯電話の電話帳に家族と塾以外の名前が並ぶのが新鮮で、帰宅後も連絡するつもりはないが意味もなく眺めてはにににと笑った。  蛍輔から初めてメールが届いたのは、家庭教師が始まる前日のことだった。  進学塾の授業が終わり、渋谷駅の改札を通る前に香純に帰宅の旨を記したメールを入れようとしたときに見つけたのだ。不意打ちにどきりと心臓が跳ねた。偽物かとすら思った。  蛍輔のメールには、放課後渋谷駅ハチ公口で待っていてください、とあった。  自然と満の口角が上がる。たったこれだけの業務連絡なのに心はすっかり満ちていた。  やっぱり真面目だよなぁ、蛍輔。  人の顔は見ないは見たら見たらで恨めし気な顔をして舌打ちをしてくるは。なのに妙に律儀で。なかなか懐かない野良猫を相手にするってこういうことなのだろうか。  集合はあくまでハチ公口なのでそこまで指定はされていないが、かの有名な待ち合わせ場所ハチ公像前にわざわざ立ち、満がわくわくしながら蛍輔を待ったのは言うまでもない。  家庭教師の授業初日、待ち合わせ時間から五分ほど後に蛍輔はやってきた。猫背であっても背は高くい。人混みの中でも容易に見つけられ、満はすぐに笑みを浮かべる。  蛍輔もこちらに気付いたらしいが満の背後にハチ公の姿を見た途端、表情を歪ませていた。 「久しぶり。分かりやすかっただろ?」 「わざわざハチ公前で待つ奴なんて修学旅行生か浮かれたリア充くらいだと思ってましたけど本当に……いえ、なんでもないです。さっさと行きましょう」  ふらと蛍輔が人混みに紛れたので満は慌ててその後を追った。  以前と違い心の余裕があるので分かったが、どうやら彼は人混みの隙間を縫って進むのが得意らしい。  一度も人ごみに阻まれることなく公園通りをどんどん進み、代々木競技場の向こう側に広がる広大な森林公園に到着した。 「代々木公園だ」 「本日の教室です」  ……青空教室? 無言で蛍輔の顔を見つめるも決して冗談を言っているようではなかった。  季節は九月の半ば、日の入りは十八時過ぎとなっており時刻は十六時を回っていた。蛍輔はすぐに街灯の真下にある木製テーブル付きのベンチを見つけて座った。 「ほら早く始めないと日が暮れますよ」 「それが狙いだろ。なんて狡猾な男なんだ」  蛍輔はどこ吹く風だ。 「毎回カラオケ店に行こうとは言わないけど、俺か蛍輔の家でもよかったんじゃないのか?」 「どちらもごめんですね。これ以上あなたの家と関わりたくないし、俺の聖域を侵されたくないので」  カラオケ店も聖域の一つだったのだろうか。満はなんとなく聞けないまま、テーブルを挟んで蛍輔の正面になるようにもう一方のベンチに座る。教科書とノート、それに一学期の期末テストで返却された解答用紙と問題用紙を手渡す。蛍輔はぱらぱらとめくり目を通していった。 「得意な教科と好きな教科は?」 「現国と古典、どっちも好きで得意だ」 「あぁこの点数でしたら……さすが読書家というわけですか、ならそれと暗記科目は省きますね」  自力で解決できるかそうでないかをテキパキと分けていき、結局蛍輔の手元に残ったのは数学科目の教科書のみだった。満は思わず不安な顔をした。塾では数学の他に三教科の授業を受けているのだ。  満の様子に気付くが蛍輔はあくまで自分のペースを貫くらしい。 「あなたの理解度よりも先に解決しないといけないのは、教師の発言の何もかもを書き起こそうとする姿勢ですね」  長く骨ばった指で示された真っ黒に埋まったページ。満が学校での授業中に必死に机にしがみつき、シャーペンを走らせた跡だった。  初めて教科書を見せたあの日も、蛍輔は率直に否定的な態度を見せていた。  自分自身では努力の結晶だと、目で見て分かる頑張りだと思っていたのだ。否定されるとは思わず、怒りに任せて大声を上げてしまった。  今日こそは落ち着いて授業を受ける姿を蛍輔に見せたかった。改めて言われてしまうとやはり落ち込んでしまうが、満は冷静であることに努めた。
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