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「教科書に載っていることだけが全てじゃない、むしろ先生の解説の方が大事じゃないか。テストにだって関係してくるし、ノートの出来が左右するんだろ」
「必要な部分を理解して取捨選択が出来ている人のノートのことを言うんですよ」
正論だ。満はぐうの音も出なかった。
「塾にはどれくらいの頻度で行ってるんですか?」
「平日で、蛍輔と合わない曜日以外は全部だよ。それまでは平日ずっと行ってた」
蛍輔は何か言いたげにするが、結局は何も言わなかった。
確かに毎日塾に通っているせいで一日の復習がてらノートをまとめ直す時間などない。土日を使って一週間の復習をしようとざっと目を通しているものの、全ての教科をまとめ直すほどの気力もない。
「集団授業なんだけど書き写すのに必死で質問もあまり出来なくてさ」
ほとんど自虐的な発言だった。
蛍輔の言う通りなのだ。
集団授業での満は書き取りに必死でろくに質問もできず、その場では分かっていたことがどんどん薄れてしまい結局は応用問題を解けなくなってしまっている。
満はいつだって集団の中で孤独だったのだ。置いて行かれまいと必死になって、机にしがみついている内に待ってと声を出すことも出来なくなっていた。
「でも中学の時も別の塾で集団授業を受けてたけど、成績は二十位以内をキープ出来てたんだ」
「中学校の成績優秀者が高校に集まるのですから、より効率よく理解できる人間が上位に残るのは当たり前です。あなたはただその中学校の中だけでなら秀才だった。よくある話です」
淡々と紡がれる蛍輔の言葉の一つ一つが満に容赦なく降り注がれる。誰も言わなかった事実だ。
「それなりの大学を目指しているのなら、わざわざ進学校ではなくとも普通の私学で上位を独占して内申点を稼いだ方が、推薦入試も夢ではなかったでしょうね」
満は俯いて教科書を見つめる。ぽつりと零れ落ちた言葉は小さく弱弱しいものだった。
「社長を目指すのに学歴だけでもちゃんとしたいんだよ。俺は勉強もそれなりにしか出来ないから」
何をやっても特別な才能には恵まれず、唯一結果を残せ希望が見えたのが勉強だけだった。
「世襲制ならよほど愚かじゃない限り問題ないでしょう。学歴重視で見栄を張るわけですか」
「俺は父さんみたいに上手く立ち回れないし、姉さんみたいになんでも出来る人間じゃなかったから」
天才ではなかった、飛びぬけて誇れる才能もない。けれども努力ならできると満は今まで自分を鼓舞してきた。
二人の間に会話がなくなってしまった。いつの間にか日差しは濃密な橙色に変わっている。教科書に落ちる影の色が次第に深まり、公園内の人影は薄くなっていく。
はたと満は沈黙に気付き焦った。
しまった、またやってしまった。このままじゃ前と同じじゃないか。せっかく蛍輔が家庭教師をはじめてくれたのに! あいつの言ってることは本当のことなんだから……。
何か言わなければと考える満の頭の中はすでにしっちゃかめっちゃかになっていた。
あちこちに散らばっている大量の紙をとりあえず掴んでは、「違う」「これじゃない」とまた放り投げ散らかしていく、そんな心象風景だった。
「あー、えーっと……ごめん、蛍輔の言う通りだよな。……気を付けるよ」
結果、気の利いた言葉を言いたくても言えないのである。いつものように当たり障りなく微笑むしかないのだ。
「書けるのも才能だとは思いますよ」
蛍輔はノートから目を離さずに言った。
「これ教師の発言をほとんど漏らさず書き取っているでしょう。雑談まで。俺はあなたの学校のことは分かりませんが、どんな教師の授業かは想像できる。短期記憶は悪くないし、集中力も高い」
彼に褒められるとどうしてこんなにも嬉しくなるのだろう。
満は頬を赤く染め幼い子どものようにはにかんだ。
「はは、う、嬉しい……」
憎まれ口や正論を平気で突き付ける彼だからこそ、裏表がない。
気のせいかもしれないが、満には蛍輔が瞠目した後、一瞬微笑んだ気がした。
「ありがとう蛍輔。俺、そうやって褒めてくれたらもっと頑張れる気がする。できれば俺の目を見て」
「楷書体みたいな字ですね」
「子どもの時にお習字をみっちり仕込まれたからな!」
「嫌味ですけど」
それから蛍輔は、書き取りの渦の中から不要な言葉を取り除いていき重要視すべきだった言葉を拾い上げた。単語だけで見ると普段の書き取りの半分程度で済んでいる。
書き取った部分を効率よく絞れと言われても、癖がそう簡単に治るわけがない。まずは蛍輔が過去の授業ページから言葉を取捨選択していき、満もそれに倣う。
実際の学校の授業でも徐々に慣らしていき、塾で復習。次の範囲の予習をする際に教師の口頭解説が生じそうな問題にあたりを付けて置く。蛍輔との授業では再び復習を行い、繰り返しと予想を行うことで問題を完全に理解するという流れを決めた。
「数学はそれでいいとして、他の教科はどうするんだ?」
「同じ方法ですよ。書き取りの効率化、余った時間でとにかく復習。あなたはきっと書いて覚えるのが得意なはずだから、分からないところがあれば直接俺に聞けばいい、それだけです」
「質問していいのか?」
満の質問に蛍輔は不思議そうにきょとんとした。
「他に誰がいるんです、質問できる相手なんて」
そうか、俺は彼と二人で勉強しているのか。
蛍輔は満の表情を見るなり気まずそうに手の甲で口元を押さえる。その顔は夕日に染められていた。
「……何笑ってるんですかキモいですよ」
今日は気が付くと口元がゆるんでばかりだ。
はじめは不安だったが、なんて心強いんだろう。胸いっぱいに安心感が広がり、満はくふくふと笑う。
まだ友だちにはなれない。けれどあの日、蛍輔を追い駆けたのは間違いじゃなかった。
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