第6話

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 いわゆる頑張り過ぎないノートの書き取りを目標に満は授業を受けていった。  はじめの方こそはいつも通り全力で書き取ってしまっていたし、さすがにいらないと判断できた教師の雑談でも、面白ければ書き取ってしまっていた。  代々木公園で蛍輔に冷たい嫌味を言われながらも続けるうちに、満が自身の変化に気付いたのは九月の末のことだった。  授業を受けた後の疲労感が違う、あまり疲れていない。  いつもなら学校の授業が一時間終わるごとに頭の中はいっぱいっぱいになっていた。しかし今はノートを見返す余裕があり、あぁここは書かなくても良かったなと自分でも分かるようになっていた。  その上、 「あ、藤沢。さっきの授業で聞き逃したところがあるんだけどいいか?」  書き取れなかった部分は諦め、後から補うことにも抵抗がなくなった。  藤沢の席は満の席からそう遠く離れていない斜め後ろにある。彼は満からの声掛けに眼鏡の奥の瞳を不思議そうに瞬かせた。  藤沢の表情の意味が読み取れず小首を傾げると、藤沢は満の疑問を察したのかぱっと顔を明るくさせた。 「いやごめんごめん。最上、なんか最近よく話しかけてくれるなぁーって」  確かに、今までは藤沢から声をかけてくることばかりだった。しかしこちらのプライベートの話をしたことはなく、内容はほとんど今と変わらず直前の授業のことばかり。だから質問をしてもいいと思っていた。 「えと、俺から話しかけられて迷惑なら……」 「え!? 違う違う、普通に嬉しいんだよー。こっそり見守っていた人ん家の子犬がようやく俺からの視線に気付いたみたいな?」  最近どこかで似たような表現を聞いた気がするが満は気にしないようにした。  藤沢の言葉に裏はないようでニコニコと嬉しそうにしてくれている。もう九月だというのに自分のこれまでの振る舞いに少し恥ずかしさを覚え、満は面映ゆい心地になった。 「授業中もわりと最上が目に入るんだけどさ、気迫や必死さが減ったよな。変とかじゃなくてえらいなぁって見てたんだけど」 「うっ、あ、ありがとう」 「やっぱあの正門前にいた窟波の生徒の影響? 家庭教師の」 「そうなんだよ! 蛍輔って言うんだけど」  満は蛍輔のことを誰かに話したくて仕方なかった。  皮肉屋ですぐ睨んでくるけど真面目で、頭が良くて授業も分かりやすくてすぐに嫌味を言うけど時々褒めてくれる、すごいゲーマーと、誰かに自慢したい気持ちだった。  両親に話そうと思ったこともあるがすぐに考えを改めた。きっと蛍輔の父に話が行ってしまう。蛍輔が嫌がるのだ。満は未だに、自身の母と永墓家内にある確執には触れられずにいた。  藤沢なら蛍輔のこと話せるんじゃないかと満が話そうとした瞬間、頭の中で蛍輔が顔中をしわくちゃにしてそれはそれは嫌そうな顔をした。  余計なことを言わないでください、脳内蛍輔が呪詛を吐く。 「……まぁ、良い奴だよ」  満の輝いていた瞳が突然曇り藤沢は怪訝な顔をした。 「え? 本当に大丈夫? 言わされてない?」 「いや、あの、見た目ほど怖い人じゃないから」 「ふぅーん。まぁ名前で呼んでるくらいだもんな」  それならいいけど、と藤沢は言った。 「ていうことがあったんだけどさぁ」 「あ、雑談地雷です。あと俺がいないところで俺の話題出さないでください」  なんで地雷なんだ、踏まれたら爆発するのかきみは。何の比喩だか分からなかったが、とりあえず死ぬんだろうなと推測した。ならばなぜ最後まで聞いてくれたのか。  九月末にもなると日没時間は途端に早くなる、十七時半にはもう夕日が沈み代々木公園の豊かな自然はトワイライトに包まれる。日が暮れたら授業終了という蛍輔の時短作戦は順調であった。  二人は授業が終わると渋谷駅まで肩を並べて帰っていた。授業開始後二回目までは現地解散と蛍輔が言い放ち彼はさっさと帰っていたのだが、ある日突然満の帰り仕度を待つようになったのだ。  理由は分からない。聞いても「秘密ですぅ、さっさと片付けてくださぁい」と適当な返事しかない。そうして渋谷駅で別れ、彼は渋谷センター街に消えていく。  蛍輔の背中を追い駆けることが多くて自覚していなかったが、隣に並ぶと蛍輔の背の高さをありありと感じてしまう。  満は現在、一七〇センチ。蛍輔は満を見下ろすには十分で、一八〇センチはあるのではないだろうか。  一緒に帰るとは言え、いつも何を喋っていいのか分からなかった。  蛍輔も何か話し出すわけでもないし、満も雑談があまり得意ではない。今までずっと無言で駅まで歩いていた。  俺はいつも、クラスの奴とどんな話してたっけ……。  ……いや話はしてるはずなんだ。  すぐに思い出せず、時々話しかけてくれる藤沢に思いを馳せてもみた。授業のこと、授業のこと……あっ、藤沢の実家の和菓子屋のこと。いつもありがとう藤沢、話題提供って大変なんだな。  蛍輔は自分のことを話すこともなく、聞かれるのもあまり好きではないのだろう。ゲームセンターの話をふったときには「聞いてどうするんです」と言われた。  ならば蛍輔に満自身のことを話してもいいのだろうか。  プライベートのこと、最近読んだ本のこと。想像はしてみたのだ、読んだ本がどんなに面白かったかを語った後の蛍輔の反応を。 『はぁ。テーマ分かってます? それ』 『何が言いたいのか全然分からない上に、読んでもない本のネタバレをされましたよ。読者を一人減らすいい方法ですね』  あ、ダメだ。想像だけでも辛い。  彼の嫌味には慣れてきたとは言え、大好きな本に対してチクリと言われるとまた心が折れてしまう気がした。
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