第6話

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 母・香純は巷で噂の才色兼備であり最上家の大事な一人娘であった。  祖母は生まれつき身体が弱く香純を産むのも苦労したと聞いている。それ故に香純は現社長である祖父からも大事に育てられてきた。  香純の優秀さに満足し溺愛していたが、香純が才能ある結果を残せば残すほどに言葉の端からは言いようのない落胆が滲み出ていたという。  お前が男でさえあれば。  ――女の子はどれだけ賢くても社長にはなれないの。だから円ちゃん、あなたはその聡明さで良いお婿さんを探しなさい。  香純はそうやって、満の五つ上の姉・円には願いを託さず―― 「母さんは姉さんには諭すんだよ。自分が辛かったからだと思う。……でも正直、姉さんが男だったら俺は生まれてなかったかもしれないな。俺なんかより姉さんの方がうんと勉強が出来るんだ。ピアノにお茶に水泳に、何をやらせても才能に溢れていた。今は大学で経済学を学んでいて、インターンシップでサイジョウ食品に行ったし即戦力になれる、俺の姉さんはすごいんだ」  ――満くん、死んだ人間にも社外の人間にも発言権はないの。言ってる意味分かる? お互いやりたいことのために頑張りましょうね。  大学入学を機に一人暮らしを始めた円は、実家を出る前夜に満にそう言った。  満はその時の彼女の発言の半分は理解し、もう半分は言葉そのままに受け取った。  ただ、円がやりたいことが何なのか満には分からない。 「姉さんはサイジョウ食品じゃなくても、どこででも上手くやっていけると思うんだけどな。やっぱり企業愛ってやつかな、最上家に生まれたわけだし」  話を聞いてくれているのか、すっかり黙り込んでいる蛍輔に満は揶揄うように言った。 「あなたの母親は自分の願望を息子に押し付けてるだけじゃないですか、とか言いたいんだろ」 「真似しないでください」 「そりゃあちょっとやりすぎだなとは思うけどさ。社長になりたいのは俺の意思だし、将来的なことを考えると母さんのやる事も大事だと思えるからな」 「あなたは、いつからそんなことを考え始めたんですか」  ぽつりと呟くように問う蛍輔を見ずに満は嬉しそうに答えた。 「社長職を継ぎたいと思い始めたのはもうずっと前だよ。子どもの頃……小学生のときにはうちのドライフーズの美味しさに感動してた。俺も社長になってサイジョウ食品で日本中を笑顔にしたいんだ」 「……そうですか」  気づけば渋谷駅の眩い明かりはすぐそこだった。ふと満は以前から聞きたかったことを思い出し、思い切って聞いてみた。 「そう言えばさ、母さんが俺と蛍輔は子どもの頃に会ったことがあるって言ってたけど覚えてるか?」  蛍輔は満の問いを受け取った後、一拍置いて答えた。 「さぁ、知りませんね。まぁあなたは昔からあのCMで有名でしたから」  あのCM。  その瞬間、満は吊り目をぐわりと大きくして固まった。  四歳の頃に作った黒歴史を思い出した途端、顔は真っ赤になり拳を上限にばたつかせわけの分からない動きで暴れる。 「あっ待っその話はなしだ、なし!」  四歳だったあの日、自分はとても良い仕事をしたと誇りに思っていたのだ。  サイジョウ食品のフリーズドライ味噌汁の宣伝CMに起用された子猫のように愛らしい男の子。ただ満は台本を完璧に熟しただけだった。  ベッドの中で寝たふりをし、どれだけ母親役の女優が呼び掛けても起きなかったが、母親がサイジョウのフリーズドライ味噌汁にお湯をかける音を聞いた途端ベッドから飛び起きる。そして一言。 『サイジョウのおみしょしりゅだ!』  年齢の割には舌足らずな言葉遣い、そして小さな両手でお椀を包み美味しそうに味噌汁を飲む姿は当時の大人たちをめろめろにしたのだった。  確かに売上には存分に貢献した。異例の大ヒットだった。だが正直なことを言うと、売上以外にあまり良い思い出がない。  親世代は確実に覚えているが子供世代は忘れてしまっている、満は学校のクラスメイトたちに絶対に知られたくはなかった。  しかし蛍輔は満を揶揄える気配を感じ取ったのか、いやらしげに口角をにやりと吊り上げる。 「えぇえぇ、そうですよねぇ。あなたはまだ四歳、お茶の間のアイでょルしゃ「アーッ!!」  必死な奇声が腹から出る。 「言うなやめろっ、蛍輔! お前!!」  手を奇妙にばたつかせ大声を上げる満に蛍輔は長身を折り曲げ腹を抱えて笑った。決して声を上げるようなものではなかったが、肩の揺れ具合から彼の笑いのツボに入ったことはよく分かる。 「おおお俺はあのときちゃんと仕事したんだぞ! 頑張ったんだ! なのに揶揄ってきて、周りの大人たちは何っ年も何年もぉ……! 知らない人だって知らないけど俺に……お前は笑うな!」 「いひひひひひひひひひひ」 「なんて笑い方だ!」 「いつも気取った話し方するくせに……叫んだ挙句お前って……!」 「ぐぅっ、あ! 駅だ! じゃあなっ、ばいばい!」  これ以上何を言っても蛍輔に笑われるだけだ。現にばいばいと言った瞬間、彼は吹き出してまた笑った。  いつか彼の笑顔を見たいと思っていた、違う、こんな形じゃない。  薄闇が広がる十八時の世界で満は大量の通行人に紛れてスクランブル交差点を渡った。点滅していた歩行者用信号が赤に代わり、振り返れば蛍輔はもう笑っておらず対岸に取り残されている。  交通信号機が青に変わるまでの僅かな間、空白になる交差点を挟んで満は蛍輔に向かって大きく手を振った。笑われてしまい立場がないのでこのまま帰るつもりだ、反応は期待していなかった。  けれど、蛍輔は手を振り返した。  あの長い腕を少し動かし自身の胸の前で小さく手を振った。じっと満を見つめて。  いくら渋谷の街が明るくても満が耳まで真っ赤にしているのは見えないだろう。動き出した二人を遮る車の流れに隠れ、満は足早に駅改札へと向かった。  少しは友だちに近づけたかな。  本当は、家庭教師をしてもらうのが少し怖かった。  我ながら稚拙で卑怯とは言え彼を脅したのだ。あれだけ悲壮感と怒りに溢れ、責任感の強い彼を。罪悪感が全くないわけではなかった。  それに嫌われながら一緒にいるのはあまりにも辛い。  来るなと言われていたが、実は家庭教師の授業が終わった後にこっそり渋谷アーケードステーションに顔を出していた。  蛍輔がゲームセンターに通う時間を奪っているのだ、その分を取り戻せているのかを確認して満は許されたかった。  蛍輔は、カラスは高く広い背を丸めて筐体の前に座っていた。相変わらずゲームセンターの客に囲まれてはいるが、客たちの様子を見るに元来の強さ変わらず格ゲーを楽しめているようだった。  満は蛍輔が与えてくれた自由な時間を読書に当てながら、時々少しだけゲームセンターに行っては蛍輔が格ゲーに熱中する姿を追うようになった。  蛍輔の邪魔になっていないか安心したいという前提ではあったが、彼が大きな背を丸めてアーケードに夢中になっている姿がどうやら自分は好きらしい。  いつもは邪魔そうに目元を隠している前髪を上げて、鋭い眼差しは液晶画面を熱く見つめる。彼にバレないように横顔を見ていると、存外鼻梁がスッと高く顔つきが整っておりハンサムなことに気付く。  女子が好みそうな顔の造形だが、不本意ではない騒がれ方をするならあの前髪で隠してくれ方がいいと満は思った。  それにカラスを慕うゲームセンターの客も満に格ゲー用語やルールを教えてくれるなど、話しかけやさしくしてくれるのもありがたかった。  今日はスクランブル交差点で別れたまま、満は素直に帰路につく。白金の最寄り駅で下車しタワーマンションに向かう中でふと気がついた。 「母さんと姉さんの話を誰かにしたの、初めてだったな……」  心が軽くなったと思いながら、その奥は靄が薄く広がっていた。
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