第1話

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 電車に揺られ白金にあるタワーマンションに帰る。  あたたかみのある明かりで煌めくシャンデリアが天井を飾るエントランスホール、満の革靴が固い大理石の床の上を進む音だけが響いていた。  マンションコンシェルジュに笑顔で会釈した後は小走りでエレベーターに乗り込む。音もなく高層階を目指す箱の中で一人きりになり、満はようやくどんよりと疲れた顔を表に出した。 「あー……、つっかれたぁ……」独り言も大きくなる。  やっと一日が終わる。長く重たいため息だって出てくる。気にしない、今は自分一人きりなのだ。  眼精疲労のためぎゅっと目を閉じる。瞼の裏に浮かびあがってくるのは得意ではない数式の嵐。現国の単元が浮かび上がればいいのに、『こころ』は面白くつい教科書を読みこんでしまう。時間があったらちゃんと読みたい……と思いながら、時間ないなとすぐに思い返し満は虚しくなった。  確実に三キロ以上はある学生鞄のせいで肩は痛いし、首を回すとゴキゴキ音が鳴った。腹も鳴る。確かに自分は若いが決して元気ではないのだ。  エレベーター内に設置されている大きな鏡に映る自分を眺める。高校一年生、十六歳。本来ならまだ幼く瑞々しいはずなのに、眦の吊り上がった鳶色の大きな瞳に生気はなくえらくぐったりして見えた。  毎朝きちんと右目の上で分けてセットしている前髪も、この時間になると分け目があやふやになっている。猫っ毛のこげ茶の髪は全体的にくったりとしていた。  こんな疲れた姿、塾の先生にもクラスのやつらにも見せらんないぞ。社長候補って期待してくれるんだから。  ふと満は、書店で見かけた現役高校生の作品を思い出す。彼ないし彼女は、文壇デビューを果たすくらいなのだからきっと頭が良いのだろう。学校と塾と作家の生活を熟す、満には到底できないことだ。  高校生の満には勉強以外のことを行う余裕がない。  けれども大学生になれば時間にも余裕が生まれ大好きな読書の時間が取り戻せるだろうし、会社の商品や経営の勉強だってできるはずだ。  そうでないと困る。俺は社長になるんだから。  チンッと音がなりエレベーターが開く、満は下がっていた眉を持ち上げ溌剌とした顔を作って自宅へ帰っていった。  「ただいま」  大理石の玄関で天井に届くほどの靴箱に革靴を仕舞っていると母の香純(かすみ)がすぐに顔を出してきた。  艶のある黒のストレートヘアをゆるくまとめ、目じりに小じわが浮かぶが四十代にしては若々しくハリがある。お気に入りのオーガニックコットンのパジャマにガウンを羽織り、香純はおかえりなさいと満を出迎えた。猫のように目を細めて笑顔を浮かべいかにも上機嫌だ。 「満ちゃん、あなた高校に進学してからずいぶんと成績が伸び悩んでるじゃない? 家庭教師を雇ったから、お勉強、見てもらいなさいな」  言われた意味が分からず満はぽかんと口を開けた。 「はい……?」 「今夜は満ちゃんの大好きなハンバーグよぉ」  説明はないらしい。  だから塾の先生にも噂されちゃうんだぞ、とひっそり思った。  香純が突飛なことを言うのは今に始まったことではない。  満が子どもの頃から塾だけに留まらず、ピアノやお習字やスイミングなどありとあらゆる習い事が、「来週から開始よ」「明後日からもうお習字はいいわね」「近くで聞いていたけどあのピアノの先生の教え方じゃあ、満ちゃんも退屈よねぇ……?」と、相談なく始まり終わっていっていた。  香純の教育方針は勉強第一だ。稽古事は教養としてある程度できるようになれば継続は不要とした。特別な才能はどれも芽生えなかったが、満が楽しいと、趣味としてなら続けたいなと思ったことでもだ。  幼い頃は残念だと思っていたが、仕方のないことだと自分自身にすぐに言い聞かせたていた。俺の将来のことを考えてくれているんだもんな、満は母が用意するものになんだって取り組んだ。  あぁでもそうか、家庭教師だなんて、俺の時間がまた減っていくのか。  ただ高校生になった今は、満の心は少し疲れていた。  進学校として都内でそれなりに有名な私立校は中学とはカリキュラムも生徒たちのレベルが別次元だった。満は置いて行かれない様に必死に勉強した。しかし一学期末テストの結果は散々だった。だから週五で夜遅くまで塾に通っているのだ。家庭教師との授業だなんて差し込む隙もない。
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