第8話

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 極度の緊張と恐怖が満を襲う。  すぐに帰るつもりだった、いつもは他の客が近くにいた、だから分かっていなかった。  嘘だ、最初から分かっていたはずじゃないか。ゲームセンターは不良のたまり場で、蛍輔にも警告されていた。理解しようとしなかったのだ、自分にとって都合の悪いことから目をそらしていた。  逃げないと、蛍輔に迷惑をかけるのだけはごめんだ。……嫌われたくない。  満はきっと外に連れて行かれると思っていた。  ゲームセンターの出入口は一つしかなく、すぐに人通りの多い大通りに出る。確かに通り一本逸れると大衆の目の届かない細い路地裏に出るが、衆人環視の目をどれだけ掻い潜ろうとも満が大声を上げれば人目を集めることは間違いない。  しかし期待虚しく、男が満を連れていったのはゲームセンター内にある男性用トイレだった。  小便器が三つに、内扉のため開けっ放しの個室が二部屋とこじんまりとした空間には誰もいなかった。  無理もない、頻繫に利用したいとは思えないほど陰気だ。  水色の壁タイルはくすみ所々落書きで汚され、二つある手洗い場の鏡はどちらも割れたのかガムテープで幾重にも塞がれている。小さな灰色のタイルが敷き詰められた床の隅は千切れたトイレットペーパーの残骸がこびりついていた。  足元が微かに湿っているので清掃は度々行っているのだろう、だが風通しも日当たりも悪く、じめじめとした薄気味悪さがまとわりつく。決して不潔ではないが、白熱灯の寒々しい明かりが不浄の場を生々しく照らしていた。  出入口からも店員がほとんどいないような受付からも遠い。だがアーケードコーナーのすぐ近く。なんて残酷なのだろう、この男は蛍輔がすぐ近くにいる状態を徹底するようだ。  男は奥の個室に満を無理矢理に押し込もうとした。満の両手は咄嗟に入り口両脇のパネルにしがみつく。  中に入れられたら、隠されてしまったらおしまいだ。踏ん張っていた片足を浮かせ満は目の前にいる男を強く蹴った。思いもよらないことに足は勢いそのままに男の腹に命中した。  初めてだ、誰かを蹴ったのは。満は物語の喧嘩しか知らない。正当防衛のための暴力が想像以上に男に打撃を与えたので戸惑い、腹を抑えて前かがみになった男を押しのけて逃げる前に満は、つい、 「あっ、すみません……っ」火に油を注いでしまった。 「このガキ調子乗んじゃねぇぞ!」  男が手を振り上げる、その時だった。 「え……!?」  それは二人以外の声だった。思わぬ横やりに男は手を振り上げたことも忘れ声の方向をすぐに確認する。満も視線をやればトイレ出入口に何者かが立っていた。 「たすけ、」 「何見てんだ引っ込んでろ!!」 「ひぃっ」  男の一喝で逃げていってしまった。満には学ランを着ていたことしか分からず、相手にも満の姿は見えていないかもしれない。あの調子なら店員に伝えてくれることも警察を呼んでくれる望みも薄いだろう。 「手間取らせやがって」  肩を強く押され、満はついに蓋の無い便座に座らせられる。恐る恐る見上げれば、思い通りにいかない煩わしさに相当腹を立てている、憤怒の男の顔が真上にあった。  どうしてカツアゲでここまで手の込んだことをするんだ。  満は金が目的だとすっかり思い込んでいた。初めて会ったときにこの男は、自分を曙高の生徒だと確認していたことを覚えている。お金持ちの進学校だと。 「い、いくら欲しいんですか……」  震える声で問えば、男は一瞬きょとんとした後なんともいやらしくニタリと笑った。  違う、金じゃない。 「イイ顔するじゃねぇか、諦めず張っておいて正解だったぜ……」  男の表情に興奮の色が増すにつれ満の頭の中でパニックが加速する。カツアゲじゃない、興奮するなやめろ、俺は男だ、嘘だ、なんで……っ。  身体が動かない。もう一度男を蹴って今度こそ逃げ出さないといけないのに、満の身体は小刻みにカタカタ震えもう何の声すらも上げられなかった。  男が狭い個室の中にグッと身を寄せ、内側に入り込んでいる扉を後ろ手に閉めようとした。 「なんだ初めてか? 残念だったなぁ彼氏じゃなくて」  品の無い笑い声が閉ざされゆく個室内にこだまする。  おしまいだ――満はギュっと学生鞄を抱きしめ固く瞼を閉じた。  その瞬間、場違いなほど大きな強い打撃音が響く。痛々しい苦し気な声と共に目の前の男が満に向かってなだれ込んできた。  満は咄嗟に学生鞄を頭に掲げ男との正面衝突は免れたが、何が起きたのか分からなかった。男が起き上がり圧迫感がなくなったため、満はそろそろと鞄の向こう側に目をやる。 「チクショウッ、だれいでぇっ!? 痛っガッいっ、やめろバカヤロウ!!」  ガンガンガンガン何度も何度も外側の何者かが激しい勢いで扉を押し開こうとしていた。  狭い個室内に男が二人も入っているのだ、扉の淵が満を襲おうとした男に何度もぶつかる。  男の片腕がダラリと力を失くしている様子を見るに、後ろ手に鍵を閉めようとした無防備なときに最初の強い一撃が直撃したのだろう。満の恐怖心はすっかりどこかに行き、呆然と事の成り行きを見守るしかなかった。
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