第8話

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「くそ! 誰だよ!」  男はこのまま籠ることも出来たが外側からの物理的な強い圧に耐えかね、外へ出ようと半開きの開口部に立つ。  満には男が邪魔で向こう側の様子は見えないが、なんとか上半身を動かし扉の隙間から覗く景色を見ようとした。  伸びてきたのはやけに骨ばった白い不気味な手だった。  満は、その手が頼もしくあたたかいことを知っている。  開いた扉の向こうからヌッと滑り込んできたそいつは、男の胸倉を掴み扉の向こう側へ引きずり出していった。  すぐにタイル壁やトイレのパネルにぶつかり合う派手な音が飛んで来る。 「捕まえたぞ!」「おい大人しくしろ! あんたもその辺にしておけ!」  驚いたことに複数の男の声が聞こえてきた。あのときうっかりトイレに来てしまった学ランの誰かが店員を呼んでくれたのだろうか?  恐る恐るゆっくりと立ち上がり、満は中途半端に開いていた扉を完全に開く。扉の外側にはくっきりとしたスニーカーの跡がいくつもついていた。  扉の形に、長方形に開かれた空間の向こう側。  すぐ目に入ったのは紺色のブレザーの学生服、とてつもない猫背。  その横顔は液晶画面に向けるものよりも硬質で、あの骨ばった手の甲で鼻血を拭っていた。  個室内と外は壁パネルで区切られているだけだ。だが扉の形に切り取られた向こう側は、まるで別の世界の景色のように思えた。映画を見ているような気分だ。いっそフィクションならどれだけいいか。  こちらに気付いたのか顔だけを満に向けた。頬に殴られた跡がある。上げられた前髪のおかげで攻撃的な瞳が晒されていた。  なんでお前が、そこまでして。  そんな満の心情など知らず、彼は満の足元から頭のてっぺんまでゆっくりと確認する。それを終えると数度まばたきをし、小さく息を吐くとともに瞳はようやく普段の気だるげなものへと戻った。  名を呼ぼうとして満は一歩踏み出した。しかし彼は片方の手のひらを満に向け静止を求めた。 「すぐに、」  平生より鋭い声。彼は一度舌打ちをしすぐに口を閉ざし、 「すぐに警察が到着するんで、今は出て来なくても大丈夫ですよぉ。ぼうか……アレは他のサラリーマンたちが取り押さえてくれてるんでぇ」  いつもの、どこか間延びした落ち着いた声。  あぁ、蛍輔だ。  途端、どっと熱いものが込み上げてくる。  何か言わなくてはいけないと思うのだが鼻の奥は痛むし、喉からせり上がってくるのは嗚咽ばかりで言葉になどなりやしない。気づけばボロボロと大粒の涙がこぼれていった。 「ご、ごめっ、ごめんなざぁ……!」  結局迷惑をかけてしまった。大好きなゲームの時間を奪ってしまった。痛い目にまで合わせてしまった。  ――お友だちにはなりませんが。  はじめから彼は友だちにはならないと言った。でもずっと勉強の面倒を見てくれて、一緒に帰って話を聞いてくれて、あんなに笑ってくれて。 「嫌いにならないで……っ」  赤いマフラーを濡らす満に蛍輔はギョッとして、視線はあたふたと満と天井を行き来する。  彼は一度リセットするように硬く瞼を閉じた。長く細く息を吐いた。かと思えばどういうわけか、口元に手を当てて満を凝視し始めた。手元で隠しきれない頬は殴打の腫れとは別の赤みが増している。こちらは涙と鼻水でぐちゃぐちゃだと言うのに。 「おい、おまえぇ、なに見でるんだよおぉ」 「いやあの」  恨めし気に睨めば蛍輔の露わになっている目元はゆっくり弧を描く。 「なにわらっでんだよおお」 「いひひひひひ」 「友だちになりだぐで泣いでるのにぃぃいい!」 「えっ。……あぁはい、友だちね。まだ彼氏じゃないですもんねぇ、はぁ友だち友だち……」  言っている意味が分からなかった。なんだか馬鹿馬鹿しくなり、満は個室から出ようと思った。 「離せぇッ!」「あ、危ない……!」  蛍輔の身体はあっという間に吹き飛ばされていった。壁にぶつかる音がしたと共に、何かが折れる嫌な音が響いた。
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