第9話

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第9話

 時刻は十九時半近くとなっていた。  いつの間にか呼ばれていた救急車で時間外診療を行っている病院に搬送され、処置と事情聴取が終わり満と蛍輔は閑散とする待合室のベンチに並んで座っていた。警察官は一人離れた場所で保護者の到着を待っている。  マフラーを鞄に仕舞った満は顎の先まで涙と鼻水で汚して、何度もハンカチで拭っていた。頭を垂れてまるで懺悔のように。だから蛍輔が今どういった表情をしているのか分からない。  蛍輔はただ淡々と話していた。満はただひたすらに謝っていた。 「格ゲーというものは左手側のスティックレバーと右手側の八つのボタンで構成されているコンパネの操作で行うんですけどねぇ」 「本当にごめんなさい……俺の浅はかな行動が蛍輔にこんな迷惑をかけてしまって……俺はなんてことをっ」 「あぁコンパネ分かりますか? コントロールパネルのことでつまりキャラクターを動かし技を繰り出すために操作するスティックレバーと八つのボタンのことなんですけどぉ」 「俺がもっとちゃんと蛍輔の言うことを聞いていればこんなことには……」 「指使いは人それぞれで、俺は主に人差し指・中指・薬指で操作しています。おやぁ? 右の薬指が曲がりませんねぇええ。あぁ折れて固定されているからかああ」 「……お、俺が蛍輔の代わりにボタンを押す!」 「何言ってんですかねぇこの人は」 「だって俺にはそれしか……っ」  顔を上げると、蛍輔と珍しく目があった。  彼が前髪を留めているヘアピンを未だ外し忘れ、猫背でさらに前かがみになり満を覗き込んでいることにようやく気付く。二人はいつかのようにまた言葉をなくして、どちらともなく顔をそらした。  蛍輔は右手薬指を骨折し、今は包帯を巻かれ副木で真っ直ぐに固定されていた。  最後に制止を振り払い雄たけびを上げながら襲い掛かってきた男の突進をまともに受け、床に手を着いた際にあらぬ方向へ曲がってしまったのだ。身体は痣だらけらしいが、怪我らしい怪我は薬指のみだった。  男は駆け付けた警察官たちに無事逮捕された。  蛍輔自身も主に蹴りつけによる怪我を男に負わせていたのだが、被害者を守るための緊急事態であり正当防衛と判断されお咎めなしとなった。ただやりすぎはいけないと、子どもだけで対処しないように注意を受けた。  事情聴取の際、蛍輔は犯人に心当たりがあると述べていた。  満に初めてナンパしていた頃より少し前に、蛍輔と『ワンスト』で対戦したことがある。蛍輔曰く男はそのすべてに完敗し、周囲の客にも馬鹿にされていたので逆恨みのように蛍輔を睨んでいた。どこにでもそのようなプレイヤーはいるので無視していたということだった。  満はそこで腑に落ちた。だからあの男は蛍輔が闘綴杯に出たがっていることを知っていたのか。満には大会に予選があり、すでに蛍輔が出場していることすら知らなかった。 「よ、予選……出てたんだな」  小さく問うと、抑揚のない声が答える。 「保護者の同意書は、あなたが中間テストで順位を上げた時点で書いてもらいました。あなたの言う通り、それが条件だったので」 「……本選っていつ?」  蛍輔は右手を持ち上げ、 「最終予選は十二月の第一日曜日。本選はクリスマスです」  直近の試合は来週ということだ。なお、薬指の骨折はくっつくまでに約三週間、そこからリハビリを要するため一か月以上は見ないといけない。最悪、後遺症だってあり得るだろう。 「あー痛いなー」 「……なんで、俺は今謝ることしかできなのにそうやって茶化すんだ」  わざとらしい言い方に満はつい怒りを覚えた。  これじゃただの逆ギレだ。謝っても謝っても謝り切れない。なのにこの想いを受け取らない態度を取る蛍輔に対して、自分でも理不尽だと分かっているのに怒りがおさまらなかった。  咄嗟に酷い言葉を言ってしまいそうになり、満はわななく唇を無理矢理に閉じる。潤んだ瞳は一度蛍輔を睨みつけ、そんな自分に失望しもう固いリノリウムの床を見つめるしかなかった。  一分ほど過ぎて、ぽつりと声が降りてきた。 「怖かったでしょう」  だからなんで。また瞳が涙に溺れ始める。 「俺はあなたを理由も言わず遠ざけて、でも来ていることを知って黙認していた。毎回毎回、古参連中が囲んでるから大丈夫かと。オタサーの姫かと思いましたよ。……それでこの様だ。骨はくっつきますけど、あなたが味わった恐怖は何度でも帰ってくる」 「なん、で……っ」 「教えたら嫌な……」 「なんでやさしくするんだよ!?」  もう感情を抑えられなかった。いきなり立ち上がり大声を上げる満に、蛍輔は目を丸くして見上げていた。 「もっと怒れよ! 前みたいに俺を突き飛ばしたっていい! 俺のせいで大会出られなくなったって言えよ!」 「何を言って……」  まだ激しく恫喝された方が気が楽だった。怒ってくれれば、恨んでくれれば蛍輔への気持ちをすべて捨てて罪を背負えるのに。 「俺が悪いって言えよぉ……」 「いやそりゃ勝手についてきてるあんたも悪いですよ。でも、原因はそれだけじゃないでしょう?」 「それだけなんだよお……っ。お前がっ、お前がやさしくするからっ。もう友だちじゃだめなのに、俺はどうしたらいいんだ……」  怒りは悲しみに代わり、とうとう満は立っていられず膝から崩れ落ちそうになる。蛍輔は始終驚いた様子で行き場なく固まっていた両手をそろそろと伸ばし、床に突っ伏して土下座スタイルで泣こうとしていた満の腕を掴む。 「はっ、離せ!」  強く言えば蛍輔はムッとし、鋭い眼差しを満に向ける。 「じゃあこう言えば満足ですか。俺はあなたの家とさえ……」  続く言葉は容易に想像できる。瞳と唇をふるわせる満に、蛍輔は今度は悲しそうな視線を向けた。 「俺をその気にさせといて、つまらないこと言わせないでくださいよ」  言葉は、満の罪悪感をさみしそうに撫でる。  押し付けだと思っていた。自己満足だと思っていた。 「まだ一緒にいてもいいのか……?」 「本好きならそれぐらい察しろよ……」  小さな舌打ちはどこか照れ隠しのように鳴らされた。蛍輔の腕に誘導されるがまま、座らされ彼の肩口に顔を埋める。  またあのぬくもりだ。  わけがわからなくて、でもやさしくて安心感があって、心臓がうるさい。  満は子どものように大声を上げて泣きじゃくった。罪悪感はまだ消えないが、もうすっかり許された気持ちになってしまった。  満は蛍輔のやさしさを、ようやく受け入れたのだ。  ややあって満の震える背中を、恐る恐るといったふうに大きな掌が撫でる。あの白く骨ばって、いつも寒そうな手が。 「…………これでも、しているんですよ。一応は」  なにが?  続きは中々来なかった。たっぷり間を開けた後、 「………………反省」  信じられない言葉だった。  あなたは納得してないみたいですけど。と、絞り出すように蛍輔は言う。思わず顔上げれば、よほど言いたくなかったのか蛍輔の非常に苦々しい表情とぶつかる。  二人は身体を離し互いにぐったりと椅子に背を預け深く腰掛けた。満は泣き疲れ、目もすっかり腫れていつも以上にまなじりが吊り上がっている。 「いや、謝りたくなかったら謝るなよ……。ていうかマジで、本当にお前が俺に謝る必要ないじゃないか」  すると蛍輔は拗ねたような顔をして目をそらし、両手で顔を覆って猫背をさらに丸めた。 「気付いてたんですよ俺はぁ……あの男が腹いせにあんたを狙ってたのを、初めから……」 「えっ、お、お前! それは言ってくれよお前!!」 「言ったら可哀想かと思ったんですよおぉ。あなた毎回オタサーの姫状態だったしぃ」 「オタサーの姫って何だよ! よく分からないけど、俺を可憐なお嬢さん扱いするな!」 「……ググレカス」 「おい、今のは絶対悪口だろ。やめろよな、そういうの」  巻き込んでしまった。迷惑をかけてしまった。互いの罪悪感がぶつかり合い各々が納得する終わりを身勝手に求めてしまったのだ。気付いていたのに心の傷を負わせてしまったと、大会直前に怪我を負わせてしまったと、その許しを。 「と、友だちって分かってたのかな。俺と蛍輔が」 「……あんた本当、図々しいですね。あーもーそういう顔しないでください、聞き流してください恥ずかしいだけですよ」 「え、へへへ。えへへへへへ」呆れた風に言われものすごく恥ずかしくなった。 「あーえーと、喧嘩強いの? すごい蹴り跡だったけどさ」 「秘密ですぅ」 「蛍輔本人じゃなくてなんで俺に目を向けたんだろうな」 「そりゃあんたが、かわ……」言いかけて蛍輔はなぜか言葉を失う。 「……皮? え、なんだよ皮って。黙るなよ怖いな」  そのまま二人は沈黙に入った。  けれどこの静けさは警察からの説明を受けていたときのような身の置き場のないものではない。罪悪感こそまだ残っているが、それでもまだ蛍輔の側にいてもいいとはっきりと分かっている。だから言葉がなくても落ち着いていられた。  このまま満足するまで二人きりでいて、いつものように渋谷駅でさよならができたなら。 「遅いですね、あなたの保護者。化粧でもしてるんじゃないですかね」 「やめろよそんなこ……や、やめろよ……?」 「なんで急に自信なくすんですかねぇ」  だってあり得そうだから。  脳裏に浮かんだ言葉に、満は一人で驚いてしまった。
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