第9話

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 外の空気を吸おうと、控えていた警察官に断りを入れ二人は院内入り口のすぐ側に出た。  外はすっかり暗くなり、空には薄曇りのかかった夜が広がっている。冬特有のひやりとした空気を裂くようにタクシーが音を立てて近くに止まった。  ドアが開いた途端、血相変えた香純が飛び出してきた。 「満ちゃん!」 「ママ……っ」  満に駆け寄りすぐにその身体をひしと抱きしめる。息子の無事に安堵の表情を浮かべていた。香純の細い肩の向こうでは、父・紘一がタクシーを待たせ警察から説明を受けていた。  ほっとしたのは満も同じだ。両親の姿に安堵し緊張の糸は完全に切れた、普段なら恥ずかしいと思うのに、今はただ母に身を任せたくなる。  肩口に頬を預けたとき、化粧品の人工的な甘い香りが鼻についた。  香純は身体を離し両手で満の頬に触れた。しっかりと色づいた瞼の下に涙を浮かべていた。 「怪我はない? 怖かったでしょう。満ちゃんに何かあったらどうしようかと」  満は一瞬なんと返事をすればいいのか分からなかった。  思い出せ、ママは出かけないときでもいつだって薄化粧をしていたじゃないか。  遅かったのは、化粧をしていたからなんかじゃない。 「う、うん。大丈夫だよ。ごめん、心配かけて」  警察官が去っていく、紘一がようやく顔を出した。 「警察から連絡があったと母さんから電話があってな、一緒に向かうべきだと一度うちで合流してから来たんだ。遅れて悪かったな」  香純の肩に手を置き、満から香純をゆるやかに離しながら紘一が教えてくれた。  あぁ、だからか。だからだよね……。自身に言い聞かせながら父にも謝る。父に頭を撫でられるのはなんとも面映ゆいが、これで家に帰ることができるとほっと安心していた。  だがそれも、香純の金切り声によってかき消される。 「あなた、うちの子に夜遊びを教えていたの!?」  香純が蛍輔に物凄い剣幕で迫る。すぐに紘一が間に立つが、それでも香純は大声を上げるのをやめなかった。 「あなたどこに転校してもゲームセンター通いをしていたそうじゃない、喧嘩に巻き込まれたことも何回もあったのでしょう!?」 「母さん、やめてっ。おっ、俺がゲーセンに勝手に行ったんだ! 蛍輔は助けてくれたんだよ!」 「満ちゃんは静かになさい! だとしても、きっかけはどうせあなたなんでしょう」  満はおろおろと母と蛍輔を交互に見守ることしかできなかった。  蛍輔はと言えば身体ごと満に背を向け、ずっと下を向いていた。言い返すわけでもなく、ただ香純の怒りを十六歳の彼は一人で浴びていた。 「蛍輔くん、満を助けてくれてありがとう」  黙って見守っていた紘一は香純に背を向け、床に片膝をつき蛍輔にやさしく声をかける。 「紘一さん!」  香純は悲鳴に近い声で彼を呼ぶが振り返ることはなく、代わりに矛先は満へと向けられた。 「満ちゃん、あなたもよ! 同い年の子の誘惑に負けるだなんて、最上の跡取りとして恥ずかしくないの!? 成績を上げるだけじゃ社長業は勤まらないのよ? あなたは最上の看板を背負っているのだから、もっと酷い状況になっていたらどうするつもりだったの」 「え、あ……ごめんなさい……」 「お姉ちゃんはこんなことしなかったのに……」  自身の浅はかさが鋭い刃となって自分自身に突き刺さる。母の声をして。 「怪我をしたのも永墓さんの子だからよかったものの……」  満は母が何を言っているのか分からなかった。 「え、あの、でも蛍輔はっ……」 「知らないお家の子だったら怪我のせいでうちが訴えられる可能性だってあったんだから」  怪我をしたのが蛍輔でよかったなどとは思えない、思いたくもない。全部俺が悪いんだ。ただそう言えばよかった、でも出てきたのは、 「ごめんなさい……、母さん」  香純の目を見ては言えなかった。ただ溢れだしそうな涙を隠すだけで精一杯だった。  俺は俺が大嫌いだ。母さんをの説得も出来なければ、言いなりになってしまう。言葉が出てこない、あんなに本を読んでいるのに何も身に着いてない。  俺には友だちを、助けられない。  ふと、満の視界の端で何かがぱっと小さく弾けた。  見れば、蛍輔が顔を上げ紘一を見上げていた。その時にはもう紘一は香純のケアに回っていた。言いたいことを言って満足できたのか、香純は紘一の腕に疲れたふうに身を預けている。  蛍輔は一人でわなわなと唇を震わせ、あの日見た、全てを憎むような苛烈で鋭い眼差しを向けた。  満は何が起きているのか分からなかった。ただこれ以上、香純の気を逆なでしたくなかった。だから小さな声で蛍輔に囁く。 「け、蛍輔、どうしたんだよ」  近い場所で言ったのだから聞こえているはずだ。だが蛍輔は決して紘一の背から目を離さず睨み続ける。 「蛍輔……?」  心細げな小さな声に反応したのか、蛍輔の肩はぴくりと揺れ、のろのろとゆっくり振り返る。満を認識にした途端にその瞳の熱はおさまり、だが何か言いたげにじっと満を見つめるのだ。言いたいのに言えないような、もどかしさを孕んだまま。満には何も分からない。  再びタクシーが彼らの近くに止まった。  次に現れたのは細みですらりと背の高い中年男性だった。彼は神経質そうな顔で満たちを見た後、すぐに表情を歪ませ、 「この馬鹿者がッ!」  大股で蛍輔めがけて駆け寄り拳を振り下ろした。
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