最終話

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 満と蛍輔が互いに反省し友情を確認したあの夜、病院の外で永墓氏は実の息子を見つけた途端にその頬を拳で殴りつけた。  突然のことに受け身すらとれなかった蛍輔は肩から固い地面に倒れた。満の母・香純は小さな悲鳴を上げ、満は呆然と目の前の状況を眺めるしかなかった。  永墓氏は幼い満の記憶の中同様に瘦せ型でひょろりと背が高く、少し神経質そうだった。ただ今は怒りと心労のせいか同期であるはずの満の父・紘一よりも老けて見えた。 「落ち着け永墓、俺たちの子どもが怖い目にあって怪我までしているんだ。今はやめてやれ」  一番冷静であったのは紘一だった。彼はこれ以上永墓氏が蛍輔を痛めつけない様に肩に手をやるが、永墓氏は煩わしげに振り払った。 「あぁ、あぁ椎名、これは私たち親子の問題だ。傷つけられたのは最上の子一人だ!」  椎名、と永墓氏は紘一を旧姓で呼び満を最上の子と称した。  このときになってようやく、満は気が付いた。勉強をし友情を育んだあの日々は、満と蛍輔だけの時間ではなかったのだと。今回の事件は香純の怒りさえ冷めれば会社に迷惑は掛からないと思っていたのは、子どもの幻想でしかないと。  痛みが酷いのか蛍輔は地面に伏したままだった。永墓氏は地面に膝をつき蛍輔の頭を乱暴に掴んだかと思えば、香純に向かって土下座をしたのだ。 「この度はっ、大変申し訳ございませんでした! 恩に報いるため、愚息が坊ちゃんのお力になれればと思い家庭教師を任せたのですが、まさか悪癖に巻き込むとは思わず……!」  悪癖なんかじゃない、そう満は言いたかった。何も言わず頭を下げさせられている蛍輔の姿に満は涙が出そうになった。  はじめこそ小さな悲鳴を上げていた香純は、腕を組んで不愉快そうに永墓氏を見下ろしていた。 「おたくの借金返済の仇をこんな形で返されるなんて信じられないわ。この子は未来の雇い主なのよ? 蛍輔君の夜遊びがゲームセンターで問題を起こすことだんて知ってたらうちも頼まなかったのに。紘一さんには悪いけど、父にはしっかり伝えさせていただきますから」  父さん助けて、と満は紘一を見つめた。視線に気付いたのか、紘一はしかし一度満を見たがゆるく首を振っただけだ。  誰もこの場を終わらせられる者はいなかった。大人は誰も蛍輔を助けてくれなかった。  永墓氏は蛍輔を無理矢理に立たせる。蛍輔はまるで糸が切れてしまった操り人形のようだ、脱力する身体すら自身の父の言いなりだった。 「夢なんて持つな」  地を這うような低い声で永墓氏が唸る。 「お前の祖父が引き際を間違えたせいで、私たちは後始末させられているんだ。永遠に! お前には誰にも迷惑をかけず堅実に、普通に生きてほしいだけだ。なぜそれが出来ない」  父親が亡くなりほとんど潰れかけの自社を継いだ永墓氏が相当な苦労をし、最終的に残ったのは借金だけだった。紘一からの頼みで満の祖父が肩代わり返済を行ったことは満も聞いていた。香純が頼んだ家庭教師の依頼も、その恩を利用した形であるとも。  満はこのとき、紘一が以前言っていた家庭教師の依頼に隠れた親の下心というものが分かった気がした。  俺と同じだ、蛍輔もずっと願いを託されて生きて来たんだ。  でもあいつはたった一人になってでも、自分の意思で期待を振り払った。  俺にはできないことだ。  俺には……? ふいに満は身体の中に空洞ができた感覚を覚える。  俺には他にやりたいことなんてないじゃないか。 「たかがゲームで何度私を振り回せば気が済むんだ。人に迷惑をかけてまでやりたいことなのか……?」  うつむいていた蛍輔の瞳に鋭い憎悪の光が差した。きっと気付いたのは満だけだ。  無意識のうちに満は行動していた。蛍輔の腕をきつく掴み上げる永墓氏の手に自らの手を重ねていた。  病院の前です、もうお開きにしましょう。迷惑をかけたのは俺です、そのことだけは忘れないで下さいなどと、後になって考えればその場にふさわしい言葉はいくらでも出て来た。  だがやはり、そのときの満は感情が先走り頭の中は真っ白だった。  分かっていたのは、今を逃せば終わるということだけ。 「け、蛍輔は、俺の友だちです」  誰もが見つめる中、満は永墓氏の目を見て言った。 「初めてできた大事な友だちなんです」 「ですが……」  たどたどしい満の発言に永墓氏が言いよどむ。満は続けた。 「今日、一番怖かったのは……今です。両親が到着してから今が、一番怖い」  しん、と静かになり誰もが言葉を失っていた。信じられないという表情の永墓氏の手が蛍輔から離れたのを見計らい、紘一が間を取り持ちこの夜はようやく幕を閉じた。  もちろん、帰りのタクシーでは香純がずっと満に対して後継ぎとは何かを言って聞かせてきた。彼女の声はもう満の耳には入らなかった。  しかしこれだけはしっかりと聞こえてきた。 「あたしはただ、あなたの心配をしているだけなのに」  満は急に申し訳なくなってしまった。  紘一は口を挟むことはしなかった。  父とは気軽に話せる間柄だと思っていただけに、いざとなったときに婿養子は味方にならないのだと思い知らされた。塾に通う日数だって週五に逆戻りだ。  だが蛍輔が大会に出ると教えてくれたのだ。永墓氏も会社で元気にしていると言っていた。真意は分からない。ただ父は少し申し訳なさそうに笑って、 「どうしたいかは満ちゃんが決めなさい」と言ってくれたのだ。  蛍輔のプレイは見られない。けれど、彼が求めてやまなかった大会を知りたかった。もし彼と少しでも話せたら……ちゃんとお別れをするんだ、満は渡すつもりだったプレゼントを鞄に詰め込んだ。
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