第1話

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 4LDKの間取りの廊下から、洗面所や自室に向かい部屋着に着替えリビングに入る。  三十畳の広々とした空間は白とブラウンを基調とし、無垢材アームのソファに同素材の六人掛けのダイニングテーブル、芸術品のように食器が飾られた食器棚と上質な空間で仕上がっている。  普段であればソファで父がテレビでも見ているのだが、出張中の今はその姿もない。基本的には香純の教育方針には口を出さない父のことだ、いても父からの説明はなかっただろう。  香純はと言えば、ダイニングテーブルに平然とした様子で夕ご飯を並べている。 「母さん、さっきのどういう意味だよ」  そう問うても母は意味ありげにニコリと笑うだけだ。満は諦めて席につく。母は満の正面の席に腰かけた。 「いただきます。………それで? 家庭教師って何?」 「永墓(ながつか)さんって覚えてる? おじいちゃんの家にいた頃も、その後も何回か遊びに来てくれていた……あの背が高くて真面目そうな方」  祖父の家に住んでいたのは満が小学生になるまでだ。  仕事ぶりではなく人柄で仕事仲間を選べ、祖父が父にそう言って聞かせているのを何度も聞いたことがある。  祖父思考は会社のモットーとしても生きており、社員の家族も含めてサイジョ食品の大切な一員であるとされている。よく懇親会や社員旅行を開いては勤務歴問わず社員の家族も招いて祖父は大々的に労わっていた。  休みの日には祖父の家にも社員が顔を出すことが多く、祖父の家に住んでいた頃は満も何度も見かけていた。永墓氏もその一人だった。 『ながつか』と聞いて満は真っ先に字面を思い出した。なんせ苗字に『墓』の字がつくのだ、幼い満は興味を持ち書店で苗字の由来辞典を探したものだ。確か瘦せ型でひょろりと背が高く、幼い満にもきちんと挨拶をしてくれた記憶がある。  サイジョウ食品株式会社の社員であり、婿養子である満の父を時々旧姓で呼んでいた。父とは学生時代からの付き合いだったはずだ。 「確か転勤族で全国の支社を飛び回ってるんだっけ?」 「この春にやっと本社勤務になられて、東京に戻ってきたの。パパの右腕として活躍なさるのよ」  ナイフとフォークを操り肉厚なハンバーグを切り分ける。温め直したものとはいえやわらかな口当たりに肉の旨味が広がり、満は思わず口角を上げる。  存分に味わい飲み込んだところで、ハタと気付いた。 「え? 永墓さんが俺の家庭教師?」 「その息子さん。もっと小さいときに一度だけ満ちゃんも会ったことがあるんだけど。くるくるした髪質で、白い肌のお人形さんみたいな」  そんな西洋人形みたいな子の記憶はない。 「息子さんの蛍輔(けいすけ)くんは満ちゃんと同い年なのよ? 公立中から窟波(くつば)大付属高校を合格したなんて聞いてママビックリしちゃった。東大合格率50%なんだから!」  香純の言葉に熱が入るのも無理もない。窟波大付属高と言えば中学生三年生の進路希望で香純が真っ先に希望した学校だ。残念ながら満の当時の担任には諦めた方がいいと強く丁寧に否定された。 「満ちゃんの私立高も進学校だなんて言われてるけど足元にも及ばないのよ」  そんなこと言われたって、今の学校だって難しいって言われてたんだ。必死に頑張ったんだよ。  満は申し訳なさそうに眉を下げる。  五つ上の姉はさらにランクが高い高校に通っていたこともあり、当時も香純は曙高で妥協しているのだと自分自身に言って聞かせていた。高校はだめでもせめて大学は早慶かMARCHね、それが彼女の今の目標だ。  今の私立曙高も東大合格率で見ると遠く及ばないかもしれないが、それでも名のある有名大学の卒業生を多く輩出している。香純の目標も決して遠いものではないが、中学の頃より成績が落ちているのだ。満は自分は落ちこぼれのようだと感じていた。  成績が悪いのは認めるし香純の心配も理解できる、しかし家庭教師を増やされるなどたまったものではない。 「あの、さ、平日はずっと今の塾に通ってるのに俺をどうするつもりなのさ。土日は予習復習で潰れてるし。これじゃ息抜きも出来ないよ」 「息抜きってあなた……満ちゃん、あなたの問題なのよ? 中学の時はもっと要領よくお勉強できていたじゃない。塾の先生にも言われてママ恥ずかしくなっちゃったわ」 「それは、そうだけど……さすがに疲れるっていうか、勉強以外でも得るものはあると思うし。息抜きは別に俺、遊んでばっかじゃないし……」  満がだんだん俯いていくにつれて香純の目が吊り上がっていく。 「ほら満ちゃんまたその話し方! 言いたいことはハッキリ分かりやすく言わないと駄目じゃない。お姉ちゃんは出来るのに……社長になるのは男の子なのよ満ちゃん。それにパパの部下の息子さんなら、大きな目で見てあなたの部下みたいなものよ。上下関係を学ぶいい勉強になるわ」 「うん、それもそうだね……」 「仕方ないけど塾の日を減らすわ。今の塾の先生じゃどうにも満ちゃんは伸ばせないみたいだし。月水金が塾、火曜と木曜日が永墓さんで話はしてあるから。これならお勉強の時間が増えたとは思わないでしょ。良かったわぁ快く引き受けてくれて」  時間の上ではそうだが、先生が増えることには変わりない。  家庭教師は来週から始まる。二学期の中間テスト、そして十一月の下旬に行われる期末テストで順位を上げるのが目標となる。 「満ちゃんは社長になるべき子なんだもの。でももうすこーし、今は努力が必要ね」 「分かってるよ。すぐに順位を上げて見せるさ」  大好きなハンバーグはもう冷めてしまっていた。
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