第2話

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 これからどうなるんだ俺は。  満は早くも泣きそうだった。社長になるべき男がこんなことで泣くんじゃないと自身を叱咤する。それでも心はもうすっかり折れてしまっていた。  明日学校に行ったらみんなになんて言おう。友だちいないから何も言われないかな。このままどこに連れていかれるんだ、ていうか本当にこいつが家庭教師なんかするのか。帰りたい。  不安と疑惑と心細さがぐるぐると駆け巡る。  衆人環視を抜け出してから腕は解放された。永墓蛍輔は何も言わずただ満の前を歩いていく。時々振り返っては満にじろりと目を向けるので、満は嫌でもついて行くしかなかった。  電車に乗りたどり着いたのは馴染み深い渋谷駅。見知った景色に少しだけ心が落ち着き冷静にもなる。しっかりしろ、俺はまだ泣いてない。こんなことでくじけるな、今まで八の字に曲げていた眉を満はきりりと持ち上げる。  目の前にある猫背の背中、今は彼について行くしかない。  電車内でも彼はほとんど無言で、満がとりあえず名乗ればぼそりと、 「……永墓蛍輔」とだけ名乗った。さも鬱陶しそうに。  衝撃的だった。満は今までこんな雑で邪魔者のような扱いを受けたことなどない。  学校生活では誰も彼も満と同じような立場の子どもばかりで妬みも僻みもない世界。親の立場の上下はあれど学内は基本的に平等で、他者との穏健なコミュニケーションの取り方を学んだ。それなりに喧嘩もした。けれどこんな、個人から明確に邪険に扱われることは決してなかったのだ。  つ、辛い。  新鮮な体験ではあるが満には楽しんだり俯瞰する余裕もない。  駅の外に広がる渋谷センター街に出る蛍輔の後をついていく。丸まっていて分かりにくいが、男らしい広い背中だ。うらやましくもあり意味もなく憎さが増す。 「おい、どこに連れていくんだ」声音にも棘が入り混じる。  もちろん返事はない。なんてやつだ、エリート進学校だなんて勉強だけじゃないか。礼儀正しさで言えば俺の方が上だ。  蛍輔の父親を思い出す。背の高さは父親譲りだろうか、父親は礼儀正しかったのに見本にしなかったとは、満は残念に思った。  満に対する当たりの強さの根源な一体何なのだろうか。家庭教師の依頼があったときに何か嫌な思いでもしたのか。一瞬、母が無理矢理に頼んだのではないかと思ったが、自分の母親を疑いたくもないし、まさかそこまで強情な真似はしないだろうと満はすぐに否定した。  たどり着いた先は有名カラオケチェーン店。看板や店舗は幾度となく見てきたが実際に入ったことがあるのは今日が初めてで、満は少しソワソワした。  蛍輔は慣れた様子で受付を済ませる。部屋の番号札を小脇に挟み、両手に持ったコップに麦茶をついだ。満に飲み物の選択肢はなかった。  再び両手にコップを持って目的の部屋の前まで来たところで、蛍輔はまた人類を呪うように眉を顰める。両手が塞がって縦長のドアハンドルを掴めないのだ。満は少しだけ溜飲が下がる思いだった。 「開けてやるよ」  そう言って手を出そうとすると恨めし気に睨まれた。蛍輔はコップを持つ手の中指を突き立てる。喧嘩を売られたのか。思わずビクリと肩をゆすると、蛍輔は中指を垂直の持ち手に引っ掛け器用にドアを開けた。身を滑らせてスッと中に入って行く。  負けず嫌いなんだろうか。飽きれながら満は閉まりかけるドアをきちんと手で開けて入室する。  なぜ彼のことを一瞬でも格好良いと思ったのか不思議でならない。不審な相手と個室に入るのはいささか恐ろしいような気もする……が、今日だけの我慢だ。  L字を逆さにしたソファの短辺、正面のローテーブルの向こう側に蛍輔はすでに腰を下ろしていた。個室内は異様に静かで廊下や別の部屋の音がくぐもって聞こえて来る、妙な緊張感だ。  初めてのカラオケ店、満は立ったままきょろきょろする。大きなテレビはカラオケ入力ランキングや満の知らないアーティストの宣伝映像を無音で流していた。 「音はうるさいんで切ってますよ」 「え」  突然の声。もちろん蛍輔だ。喋るのかお前。というか丁寧語使うのか。満の困惑は顔に出ていたらしく、前髪の奥からまたもや睨まれてしまう。  蛍輔のものから斜め右にもう一つの麦茶が入ったコップが置かれているので、一応はソファに座ってもいいらしい。ようやく腰を下ろしたところで、蛍輔は満とは決して目を合わせず口を開いた。 「……で、何を教えてほしいんですか」  抑揚もやる気もない声。何のことを言われているのか分からずきょとんとしていると、軽い溜め息と共に骨ばったてのひらが満に向けられる。 「教科書、とりあえず今持っているだけ見せてもらえませんかね」 「あ、あぁ。そうだな」  そうだ、彼には勉強を教えてもらいにきたのだった。あまりにも彼に注視しすぎて本来の目的を忘れていた。  満はすぐに持っていた全ての教科書を両手で手渡した。今日は体育の授業があったので、教科書は五冊だ。どれも付箋を大量につけており、大量過ぎて紛らわしくなってつけたドッグイヤーの跡もある。 「なんですかこれ……いや、そもそも全部持って帰っているんですか。置き勉もせずに」 「普段はこれに塾の教科書もあるぞ。家でも予習復習もするなら尚更必要だろ?」  返事はない。ちらと蛍輔のリュックサックを見れば膨らみはなく、中にほとんど物が入っていないと言わんばかりに上に乗せた細いペンケースに押しつぶされていた。  エリート進学校生が置き勉してるのか……? 「なぁ、本当に窟波の生徒なのか?」 「そうですよぉ」間延びした適当な返事だった。 「その荷物で……? さっきのゲーム機だって校則違反じゃないのか。最悪指導されるし、お父さんが知ったら大変だろう。ゲーム好きなのか?」 「……チッ」  かなり大きな舌打ちだった。満はもう泣きそうでじっと麦茶を見つめた。  彼は一体何が気に入らないのだろうか。
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